The fools who dream

 その日、ランチはあのピッツェリアに行こうと思った。
 あのピッツェリアは、仕事のなりゆきで知った店なのだが、価格が良心的であるのはもちろん、味がとても口に合い、気に入りの店の一つになった。また、顔見知りのなじみでいつも食後にサービスでこっそりエスプレッソを出してくれるところも良かった。土地柄、気取った店でないところも。
 土地柄、というのはもちろんこのネアポリスの街のことであるが、とりわけこの店が位置する下町と言えるエリアは、ネアポリスで生まれ育ったフーゴにとってもあまり馴染みがあると言える場所ではなかった。ネアポリスは他のイタリアの都市と比べて良い意味でも悪い意味でも活気のある街であることに変わりはないが、裕福な家の生まれであるフーゴの育った地区は比較的落ち着いたエリアで、パッショーネの一員として生きることになるまではあまり立ち寄ったことがなかった。しかし今となってはこの何もかも飲み込む懐の知れない自由な雑踏が心地よく、自分もその地によく馴染むような気さえする。


 アパートや店がひしめき合う狭い路地に入りしばらく歩き、人気が少なくなったところでさらに小さい横路地に入ると、目的の店がある。まだランチには少し早かったが、店主がフーゴの顔を見るや否やにこにことした顔で招き入れてくれ、いつも通りのシンプルなマリナーラとエスプレッソを出してくれた。朝が早い日だったのですでに腹の虫が鳴っていたフーゴは、香ばしい窯焼きのピザに素直に舌鼓を打った。店主と少し世間話をして店を後にする。そこまではよくある一日だった。


 狭い路地を歩きながら視線を上にやると、眩しい太陽の粒子が降り注ぐなか、向かい合ったアパートの合間を縫うように色とりどりの洗濯物がまるで国旗のごとくはためいていた。ここでは当たり前の日常の風景だが、珍しがってカメラのシャッターを切る、見るからに観光客風のいで立ちの人間を何度も見たことがある。そしてその隙を狙うスリであろう人間たちも。
 今日はしかし落ち着いたものだ、と思い歩いていると、ふいに視界が真っ暗になった。と同時に、頭に何か被さったような柔らかい衝撃を感じる。一瞬の出来事だったので何者かに攻撃されたのかと警戒し身構えたが、そこには殺気のようなものは一切なかった。
「なんだ…!?」
 頭に被さっていた布のようなものをはぎ取ると、「大丈夫!?」という叫び声が上から降ってくる。
「ごめんなさい、洗濯物が飛んでいったの!それわたしのTシャツよ」
 反射的に声の方を見上げると、すぐそこのアパートの上層階のバルコニーから、一人の女性がこちらに向かって身を乗り出しているのが見えた。丁度逆光になり顔はよく見えず、少しウェーブがかった黒い髪が風になびいているのばかりが目立つ。
 Tシャツ、と言った。なるほど、さきほど頭からはぎ取ったそれは彼女のTシャツだったのだ。改めて手に取ってみると、たしかに黒地になにか柄が入っているTシャツだった。乱暴にはぎ取ったせいでくしゃくしゃになってしまっているが、どこかで見たことがあるような気がする柄だ、と思った。
「ちょっと待って、今降りるから」
「あ、おい……」
 そう短く叫んだ彼女は、さっとバルコニーの奥に引っ込んだ。狐につままれたような気持ちでやる瀬なく立ち止まっていると、先ほどのTシャツの柄が気になったことを思い出した。
 広げて見てみると、見慣れたCDジャケットのデザインがでかでかとプリントされているのが目に飛び込んできた。まさかこんなところで目にするなんて予想外だったので、一瞬動きが止まった。それは、フーゴの敬愛するギタリストが参加していた1970年代のバンドのCDジャケットで、父親世代くらいの音楽好きの人間の口から名前が出ることこそあるものの、周りの同世代の人間からは殆ど話を聞いたことがない。しかし、顔は良く見えなかったが、「私のTシャツよ」と言ったあの彼女も、自分とそこまで歳は離れていないように思えた。それがなんとなく、フーゴの興味を引いた。


「さっきはごめんなさい、ケガしなかった?」
 肩を軽く叩かれ振り返ると、先ほどバルコニーから身を乗り出していたあの彼女が立っていた。急いで階段を降りてきたのだろう、胸元まである黒い髪は、ほうぼうに散ってふわふわとしている。改めて顔を見ると、やはり自分と同じくらいの年代のように思えた。
「ケガはないよ、大丈夫だ。それより…君も好きなのかい」
「え?」
 なんのことかわからない、という顔でフーゴを見上げる彼女の目は、ふさふさとした濃いまつ毛に縁どられている。この地区は昔からスペイン人にゆかりのある地域であるせいか、なんとなくその血を感じる顔立ちのように思えた。
 これ、と言って手に持っていたTシャツを広げて見せると、「あぁ!」と合点がいったようだ。
「大ファンなの。これ、どうしても欲しくて、わざわざ古着屋で探してきて買ったのよ。でも分かってくれる人が周りに誰もいなくて」
「そりゃいいな。ぼくも、彼らが好きって言う同年代くらいの人は初めて見たかもしれない」
 パッと顔を輝かせた彼女は、思いがけないところで同志に出会えた、と言って笑い、良く日に焼けてぴかぴかとしている手を差し出した。
「わたしNameよ」
「…ぼくはフーゴ」
 フーゴはその手をゆっくりと握り返した。その手はいまも頭上から遠慮なく降り注いでいる太陽の日差しのように熱かった。こうして仕事以外のところで仕事以外の人間と知り合いになるのは久しぶりだと、頭の端で思った。
「この辺、よく来るの?」
「近くのピッツェリアに、たまにね」
「ピッツェリア?」
 マルキジオさんのところだと告げると、あぁ、マリナーラが美味しいのよねとまた笑った。
「わたしの家、このすぐ上なの。もしまた見かけたら、声かけてよ」
「…わかった、そうするよ」
 じゃあね、と手をあげ、彼女はその場を去っていった。ちらほらと行き交う人をすいすいと交わして歩く彼女は、まるでこの街の一部みたいだった。太陽の光が降り注ぐ、色とりどりの洗濯物がはためく、どこか少しだけ異国の土の香りを感じる、人々の生活の音や笑い声が響く下町。彼女のからりとした笑顔は、この街によく似合っていると思った。


 あのことがあって以来、たびたび例のピッツェリアを訪れるときはあのバルコニーを気にするようになったが、彼女の姿を目にすることはなかった。あの日起こったことはもしや自分の想像であったかと思えるくらいに、彼女の気配はなかった。ただあのバルコニーからは、相変わらずさまざまな色の洗濯物がはためいていた。
 色濃く残っていた彼女の記憶も次第に薄れつつあったころ、夜ミスタと食事をして別れ、一人で帰路についていたとき、いつの日かと同じように、ふいに何者かがフーゴの肩を軽く叩いた。
「ねぇ、あなたフーゴよね?そうでしょう?」
「君は…」
 振り返るとそこには、レモンイエローのワンピースを着て髪をラフにまとめ、長めのピアスを耳元で揺らしている、よそゆきの雰囲気をまとった女性が立っていた。あまりにも印象が違ったのではじめはうまくイメージが繋がらなかったが、顔をよく見ると、あの日洗濯物を飛ばした彼女だと気づいた。
Name?」
 控えめに問うと、忘れられちゃったのかと思ったわ、とからからと可笑しそうに笑った。
「ごめん。君があまりにも…」
「前会った時とずいぶん格好が違うものね」
 おどけたようにワンピースを広げて見せる彼女は、控えめに言ってもとてもきれいだった。日に焼けた肌にイエローが映えて、もし太陽の光が人の形をしているなら、きっとこういう風な女性だろうと思った。
「どこかに行っていたのかい」
 そう問うと、デート、と事もなさげに答えてみせる。その割には、表情は明るくないように見えた。
「最悪だった。今日初めて食事に行ったんだけど、話がまるで通じなかったわ」
「なるほど、どおりで浮かない顔だ」
「でも、時間を無駄にしたと思ったけど、偶然フーゴに会えた」
 笑うと耳元のピアスが揺れて、街灯がそれに反射してきらきらとした。そして、なつかしいような潮の匂いがかすかに香った。
「今から帰るところなら、途中まで一緒に歩いてもいい?」
「ああ、もちろん。近くまで送るよ」


 そこから並んで歩き、いろんな話をした。あれからあのピッツェリアに行ったが会えなかったこと、お互いの好きな音楽のこと、今日とった食事のこと、この街の夜景のこと。会うのは二度目のはずだが、昔からよく知っている友人に久しぶりに会ったような感覚だった。
 彼女のハイヒールが石畳を踏むこつこつという軽やかでリズミカルな音が、耳をくすぐる。この季節は日の入りも遅いので、とっぷりと日が暮れるというにはまだ早く、街灯が群青色のグラデーションの空をぼやかしていた。彼女と並んでみるこの街の景色は、いつもと何かが違って見えるようだった。
 そろそろ彼女の住む下町の地区が見えてこようかというころ、例のピッツェリアについて話していたNameが「ちょっと待って」とベンチを見つけて走り寄り、すばやく腰掛けた。フーゴがどうしたの、と聞く前に、彼女は持っていたトートバッグから袋を取り出し、その中に入っていたらしきものをいそいそと引っ張りだそうとしていた。近くに寄って見てみると、中にはスニーカーが入っていた。
「君、何してるんだい」
「何って、靴を履き替えてるのよ」
 ハイヒールを脱ぎながら、さも当たり前のことのようにNameは答える。きれいなドレスを着ているのになぜ、と思った。よそゆきのワンピースとスニーカーはどう見てもそぐわない。
「一体どうして?」
「だって、そろそろ暗くなってきたし、家までの道でひったくられたりでもしたら、ハイヒールじゃあなにもできないでしょう」
 たしかに、彼女の住む地区は治安が良いとは言えない地域であったが、根っからそこで育ったのであろう彼女ですらそれをわきまえ、ドレスを着ている夜であれプラクティカルに対処をしなければならないというのは驚きだった。しかし、それができてしまう彼女は果たしてこの地に生きるイタリア人らしいし、好ましくもあるのが正直なところだ。そして彼女にハイヒールを脱いでほしくないと思う自分も、結局のところ他の誰とも違わない、イタリアという地に住まう人間だったのだとも思う。
「家の下までぼくが一緒に歩くから、そのままじゃあダメかな」
 フーゴの問いに「えぇ?」とふざけたように笑って返しながら、Nameはきっちりスニーカーに履き替えてしまった。そのまま、ハイヒールを手にぶら下げて立ち上がり、フーゴの隣に戻ってくる。
「デートじゃあないんだから、別に家の下まで来なくて大丈夫よ」
 ハイヒールの高さが無くなったせいで、彼女の顔が先ほどよりも遠のいたのが少しだけ残念だと思った。


 そこから再び少し歩いたところで、例の地区の入口の路地が見え、このあたりで良いわ、とNameがフーゴの方を見上げた。誰かと別れるのが名残惜しいなんて、いつぶりだろう。腕を取ってもう少しひきとめたい、と思うなんていうのは。
「…次にまた会えたら、その時はデートにしないかい」
 フーゴがそう言うと、Nameは心底おかしそうに笑いを漏らして、それでもしっかりとフーゴを見つめた。
「あなたって不思議な人」
「そうかな」
「いいわ。じゃあ次は、あなたがわたしを見つけてよね」
 わかった、と答えると彼女は満足そうな顔をした。きっとまた会えるわ、と言い残してそのまま路地に入って行く。一度だけ振り返って、「Buona notteおやすみ」と言ってハイヒールをぶら下げたほうの手を上げた。「Buona notteおやすみ」と返して、レモンイエローのワンピースが路地の角を曲がるまで見送る。きれいなドレスを着てスニーカーを履いた彼女は、いとも軽やかにあの街に戻って行った。
 次に会うときは、一緒に食卓を囲みワインを飲んで酔っぱらうのもいい。潮風に遊ばれるのもいいし、露天商をひやかすのもいい。なにより、ハイヒールを履いたまま家まで送ってあげられる。なんでもないことだが、それはなにか、とても素敵なことのような気がした。