Golden Slumbers

 ビートルズは元々好きだったが、ここしばらく、サバイバーで流れるビートルズが一番のお気に入りになった。
 初めてサバイバーに足を踏み入れた時も『ゴールデンスランバー』が流れていて、暖かみのある電球色に照らされた店内に佇むピアノ、スピーカーから流れてくるストリングスの音色、そしていらっしゃい、と目をあげたマスターの顔、その全てが痛いほどわたしの頭の中に刻み込まれた。その瞬間、あぁ、と思った。あの時ことは、今でも鮮明に思い出すことができる。


「『アビーロード』?ほんとおっさん世代の音楽が好きなんだなぁ」
「良い音楽は時代を超えるんです」
「なんかのドラマで聞いたことあるぞ、そのセリフ」
「ドラマの受け売りじゃないってば」
 流してほしいレコードをマスターにお願いしていると、ウイスキーグラスを傾けている足立さんが横から茶々を入れた。マスターはレコードの埃を軽く払い、ターンテーブルにレコードを乗せ、まるで大切な人が遺していった宝物をいつくしむような柔らかい指先で、そっと針を落とした。わたしはその優しい仕草がとても好きだった。
「そのドラマ、昔アングラ的に流行ったやつじゃねぇか?ちょうど横浜のこの辺りが舞台の、主人公が探偵のやつだろ」
 マスターがターンテーブルのスイッチを押し、わたしたちの方に振り返って言う。
「そうだそうだ。もう何十年か前になるけど、マスターもよく覚えてんなぁ」
 足立さんがそう言うと、記憶力は悪い方じゃねぇ、とマスターが少し笑った。
「だから足立のツケがもう一ヶ月分溜まってんのも、しっかり忘れてねぇぜ」
「ゲッ」
 するどい指摘に足立さんはギクリとし、それ今言わなくても良いだろ~と言いながら逃げるようにお手洗いに立った。それを笑いながら見送り、マスターの方に向き直るといたずらそうな顔をしている。
「かわいそうな足立さんのために、今日はおごってあげようかなぁ」
「そんなの必要ねぇよ。足立のツケが一ヶ月分溜まってるくらいで、店が傾くわけでもねえしな」
 それに自分のケツは自分で拭くのが筋ってもんだろう、とマスターは付け足す。
 ケツとか筋とか、あまり耳慣れない言葉を彼はよく使った。足立さんもマスターとはそこそこ長い付き合いらしいが、プライベートのことはあまり知らないようだし、なんとなく謎めいた雰囲気を持つ男性だった。そのミステリアスなところが、彼の作るカクテルの美味しさに輪をかけているのかもしれないとわたしは思っている。言わずもがな、マスターの作るジンフィズは、絶品であった。


 グラスの中の氷が溶けて、小さくからん、と音を立てた。今日は日曜日だからか店内もがらんとして、わたしと足立さん以外のお客はいない。その足立さんもお手洗いにいる今、この空間にいるのはわたしとマスターだけということになる。なんとなく意識してしまい、手持ち無沙汰にグラスの氷をかき混ぜていると、マスターが沈黙を破った。
「家でもレコード聞くのか?」
「いえ、家では。プレーヤーが欲しいけど、なかなか手が出なくって」
「プレーヤーなんて買わねえほうがいいぞ、それを買うとレコードを次から次へと買っちまうことになるからな」 
 たしかに、と言って笑うと、マスターも笑いながらウイスキーの瓶を開けて自分のグラスに注いだ。
「でも、マスターのプレーヤー。あれ、とても素敵で」
「ああ、これか」
 わたしたちが座るカウンター席の向こう側に、そのレコードプレーヤーは静かに鎮座していた。それは見るからに古く、手入れされているので状態は良いものの、かなり長い間使われてきたことは明らかだった。今はあまりないようなレトロなデザインも、なんとなくこの店内にはしっくり来ていた。
「…昔、ある人からもらい受けたプレーヤーでな」
「…ある人?」
「もう十年以上前の話だ。それからずっと、手入れしながら大事に使ってる」
「……その人は…」
 そう言いかけたタイミングで、足立さんがお手洗いから戻ってきた。気を取り直したように、「あのドラマに出てた妹役の子かわいかったんだよなぁ」とマスターに喋りかけたことで、プレーヤーの話題は中断し、うやむやとなった。足立さんとマスターが喋るのを話半分で聞きながら、今しがたのマスターの言葉を頭の中でひっそりと反芻した。


 『ある人』がとても大切な人であったことは、マスターの顔つきで分かった。
 その人は女の人?男の人?今はどこで、どうしてる?聞きたいことも、聞けないことも、知りたいことも、知らないことも、数えきれないくらいたくさんあった。
 気づけば、スピーカーからはあの時と同じく『ゴールデンスランバー』が流れている。かつてそこには家へと続く道があったと、この歌で歌われているようなことが、もしかしたら彼にもあったのかもしれない。帰れない居場所や、失った人々。そんなものがあったのかもしれない。
 いつかカウンター越しではなく、隣で話をすることができたら。その時がもし来るなら、少しでもいいから、あなたのことを教えてほしい。あの、思い出をいつくしむような、優しい指先のわけを。