少し前、ハンジュンギがキムチを寄越した。
訳を問えば、数日前にコミジュルの一員が起こしかけたトラブルを、そこに通りかかった俺がうまく場をまとめて事なきを得るに至ったから、とのことで、なんともいじらしいほどに真面目な男のようである。しかし、そういう類の礼ならば普通は金品の類が相場ではと不思議に思い、なぜキムチなのかを問えば、仮にもあなたは流氓の総帥を退いた身であるから、今更コミジュル側から金品を寄越すのはいかがなものかと、とのたまう。さらに、なんでもこのキムチはコミジュル内の料理屋で手作りしているものだそうで、食べて損はないから是非一度食べてみて欲しい、と眉目秀麗なその男は付け足したのだった。
彼の言い分はごもっともである。
納得できる理由ではあったが、そこであえてコミジュル内手作りのキムチを渡してくるところが、彼の憎めない所と言えるだろう。付け足された理由のほうが主な理由なのではないかとすらも思う。まだ誰にも漏らしたことはないが、あの女帝ソンヒを筆頭にコミジュルの面々はどうも食道楽が多いようなのだ。もちろん、このハンジュンギも例外ではない。
「…ていうくだりでもらったキムチがこれ」
煙草サイズのタッパーを差し出し蓋を開けてやると、慶錦飯店近く、小さな出店が集う薄汚いあなぐらのような広場の簡易テーブルに座り、目の前で満足そうに肉包子を咀嚼するNameちゃんは、しっかり目線だけでそのタッパーの中身を捉えた。十分に味わって飲み込んでから、わぁと何とも間抜けな驚きの声を上げる。
「手作りには見えない。美味しそう」
「Nameちゃんも食べてみてよ」
無愛想に置かれているテーブルの上の割り箸立てから一本取り、Nameちゃんに手渡してやる。
「いただきます。……うわ、めちゃくちゃ美味しい」
美味しい食べ物に目がないのがNameちゃんのかわいいところだ。
「でしょ?これが本場のキムチかぁーって、カンドーしちゃってさぁ」
「さすがだね」
異国の地に暮らす移民やその末裔たちは、なにはともあれ食を大切にしている。帰りたくとも帰れぬ事情があるものが多い、母国からのはみだしものとも言える彼らにとっては、彼らの母国はまさしく自分たち自身だ。その中で自分たちのアイデンティティを確固たるものにするため、彼らは慣れ親しんだ食文化をしっかりと異国の地にも馴染ませなければならなかった。味気ない宇宙食を食べて生きるより、温かい祖国の料理を食べて死ぬほうがマシだ。皆、そう思っている。それは流氓だけではなく、コミジュルにも言えたことで、コミジュル界隈の飲食店の活気たるや、まさしく韓国の地そのものだと感じる。
そんな自分達の根幹を成すともいえる食物を、事情はともあれハンジュンギが寄越したことは、心の中に真っ直ぐに通ずる何かを得た思いだった。
つまるところ、無性に嬉しかったのだ。
「なんかこのキムチ食べてさ、改めて思ったんだ。俺、やっぱりマフィアのボスは向いてなかったんだよ」
一通り食べたいものを食べ、腹が満たされたらしいNameちゃんは、俺の方を向いて興味津々と言った感じで少し首を傾け、続きを促した。
「流氓の奴らのこと考えて、やってやりたいことといえば、飯作ってやることくらいでさ」
もう一つ、移民たちが拠り所にしているものは居場所だった。それは宗教や、仕事場や、様々なものにも代えられる。流氓の総帥という立場にいると、周りの皆の求めているものがよくわかった。彼らは居場所を与えてくれる求心力のあるリーダーと、安定した固い組織の絆を求めている。
「強い組織を作るとか、金儲けを頑張るとか、全然キョーミなかったし。でもさ、迷える子羊たちの腹は満たしてあげたいじゃない?」
「なんだかカミサマみたいだね」
「そう、みんな強いカミサマが欲しいんだよ」
うーん、と言ってNameちゃんは口元を拭った。でもみんなの気持ちもわからなくもないよ、と続ける。
「でも俺はやっぱカミサマは向いてないからさ。ソンヒが頑張ってくれるっていうし、そこはお言葉に甘えて。だから俺、今度は新しく飯屋でもやろうかなーって」
飯屋と聞くとNameちゃんは目を輝かせた。
「いいじゃない。趙くんちの実家のレストランはちょっと豪華な感じだったから、もっと庶民的なやつ」
「そうだなぁ。それなら春日くんや足立さんも気軽に来れるしね」
春のさわやかな風が店先の提灯を揺らした。二人とも何気なくそれを視線の先で追うと、心地よい沈黙が流れる。流氓の総帥として生きていたころは、こんなに心穏やかな昼下がりを迎えたことは随分となかった気がする。
「でも、なんかよかったな」
Nameちゃんがふと沈黙を破った。彼女の方を見ると、なにやらかわいい顔でにこにこしている。
「なにが?」
「趙くんはなんでもできるけど、何かをやりたいって自分から発信したことってあんまりなかったからさ」
Nameちゃんの言葉はもっともだった。学生時代からそこそこの成績、そこそこのケンカ、そこそこの悪巧み。なんでも卒無くできたけれど、何かに夢中になれたことなどひとつも思い出せない。しかし、強いて言えば料理だけは好きだった。思い返せば最初から、やりたいことは決まっていたのかもしれない。ただそういう環境ではなかっただけで。
「……そうかも。考えればいちばんカッコ悪いよねぇ、なんでもそこそこできるけど、なんにもやりたくないヤツって」
「いや、なんでもできる趙くんはかっこいいよ。でも、何かをやりたいって燃えてる趙くんも素敵だよ」
「照れるなぁ」
あはは、とNameちゃんが笑うと耳元でピアスがゆらゆらと揺れる。テラコッタカラーのタッセルピアスは、前に一緒に出かけたときに買ってあげたやつだ。似合うなぁと思って見ていたら、何やらいいアイデアを思いついた。
「ハンくんへのお返しに、手作りザーサイでも持っていくかぁ」
「あ、いいなぁー」
「Nameちゃんにはまたいつでも作ってあげるよ」
俺が席を立つと同時にNameちゃんも立ち上がった。食べ終わった後の紙皿をゴミ箱に入れ、キムチを入れていた小さいタッパーを持ってきたときに使っていた紙袋に仕舞う。
「まさかその中身がキムチだったとはねぇ」
「意外性があるでしょ」
階段を登り広場を後にする。雑然とした路地を抜け、また階段を下りしばらく歩いて、裏通りに出た。生まれ育った場所の、見飽きた光景だ。
何する?趙くんは?うーん、散歩。じゃあそれ。なんでもないけど、やりたいことを話せるようになった。これもきっと色々あって、春日くんのおかげだ。結局は誰しもが、こんななんでもないことのために生きているような気がする。まだまだ人生捨てたもんじゃないなぁ、と思いながら、隣を歩くNameちゃんの手を取った。