メメント

 フロントガラスに細かいシャワーのような小雨が打ち始めた。一番ゆるやかなスピードでワイパーを動かし、しずかに信号が変わるのを待つ。雨粒越しの夜景の光を、桐生は好きだった。嫌いなものや避けたいものは山ほどあったが、好きと言えるものは片手で足りるくらいであるから、それはそれは貴重なものだ。雨粒が街のネオンを滲ませ、その滲みが大きくなるのと比例して、小さなあたたかい繭の中にいるような不思議な気持になるのは、仕事中であっても変わらなかった。
 その滲みを静かに眺め、雨が降り出したからにはこれからは客足も増えるだろう、と中洲街近くの大通りを走らせていると、傘を持たない一人の女が手を上げているのが見えたので、するするとスピードダウンし女のすぐ横に車を着ける。車の運転も嫌いな方ではなかったから、思いがけず就いた仕事とはいえ、この業界も案外合っていると言えるのかもしれない、と桐生はささやかに思っていた。


 女は、すいませんと一声かけ車内に入ると、「A駅の近くまで」と告げた。
「わかりました。発車します」
 サイドブレーキを解除し、またそろりとスピードを上げ車線に戻る。この街に来たのはそう前のことではなく、最近ようやくこの辺りの地名や土地関係がだいたい頭に入ったところだ。この仕事を始めたばかりのうちはカーナビに頼ってばかりだったのが、近ごろは滅多と使わなくなったのをタクシー会社の上司はこれ以上ないくらいに褒めた。お人好しが服を着て歩いているような人なのだ。
 目的地までの最短ルートを頭の中で考えていると、いきなり降ってきましたねぇ、と後部座席に座った女が口を開いた。この時間帯に拾う客はだいたい酒が入っているのと、土地柄もあってか、陽気で饒舌な人間が多い。彼女もそういうタイプの人間なのだろう。
「そうですね。だいぶ降られましたか」
「いえ、そこまでは。タイミング良く来てくれたので助かりました」
 髪やジャケットについた雨粒をハンカチで払いながら、女は笑った。バックミラー越しに、目元に泣きぼくろがふたつ、並んでいるのがふと目に付いた。
「もっと早くに帰る予定だったのに。会食が長引いて遅くなっちゃって」
「それはお疲れ様です」

 今までは差し障りのない世間話、というものに全く縁がない人生だったが、この仕事に就いてからはそういう技量も必要らしいということを知った。雑談が上手くないことは自覚しており、それも承知していた例の職場のお人好しの上司は、そういう時はお客さんに喋らせるのがいいよ、とアドバイスを寄越した。それ以来、話題に困ると客に喋らせるよう、何か質問を投げかけてみることにしている。
「どういうお仕事を?」
「不動産関係です」
 女は簡潔にそう答えた。桐生には、不動産、と聞けば、思い出さずにはいられない人々と、思い出のようなものがあった。
 振り返れば、もう随分と彼らとは遠いところに来てしまったなと思う。
「…自分も昔は、不動産屋で働いたことがあったんですよ」
 あの時代のあの街のギラギラとした喧騒を思い出しながらそう答えると、女は意外そうな声を出した。
「そうなんですね、偶然。福岡で?」
「いえ。東京の……神室町です。もう20年くらい前になりますが」


 神室町、と言う単語を聞くや否や、女は少し口をつぐんだ。一呼吸置いてから、懐かしい、と呟くのが聞こえる。
「わたしも同じくらい前、あの辺りに住んでたの。…昔の恋人と」
「そうなんですね」
「彼も不動産屋で働いてて、仕事自体は真面目にやっていたけど…不動産屋っていうより、アッチ関係の人っていう見た目だったなぁ」
 彼女が可笑しそうに思い出している過去の恋人、というのと、自分が思い出している過去の同僚の姿はなんとなく似ているような気がする。決して長い期間を共にした訳ではないが、それなりに濃い時間を過ごしたあの二人のうち、立華の方はまだ会社勤め風の人間に見えたが、尾田の方は全くお世辞にもそうとは見えなかった。自分も人のことを言えた立場ではないが、あの頃は一時的に破門されていたとはいえ、本当にあちらの稼業をやっていたのだから仕方ない。


「…自分の同僚にもそんな男がいました。派手なシャツと白いスラックスで、ピアスなんか付けて。香水も甘ったるくて…今から思うと考えられませんね」
 すると、女は驚いたように、あの人にそっくり、と声を上げた。
「香水の香りって、意外と記憶に残るものよね。未だに、彼と同じものをつけてる人とすれ違うと、絶対振り返ってしまうもの」
 お兄さんの同僚って人と彼、案外同じ人かもしれないわね、と女は冗談めかして笑った。信号が赤になったので、スピードを緩めて停車した。改めてバックミラーで女の姿を確認すると、窓の方を向いて外を眺めていた。薄暗い車の中、雨粒が流れるガラス越しにぼんやりと明るい街灯に照らされ、女の横顔は絵画の中の登場人物のように見えた。ふたつ並んだ泣きぼくろが印象的だった。
「その人、ある日を境にぱったりいなくなって。全然帰って来ないから心配で、しばらくして会社にも電話してみたんだけど、社長が亡くなったとかで会社も畳んでて」
「………」
「彼とはそれっきり。家族はもちろん、彼の周りの人も知らなかったし、今みたいに簡単に連絡が取れる世の中じゃなかったでしょ。いまだに、生きてるのか死んでるのかもわからない」
 まぁ単に、他の人のところへ行ったのかもしれないけどね、と、その女は雰囲気を変えようと健気に笑った。
 その時、ふいにいつか尾田が話していたことが頭を過った。年下の恋人の話をしていた。「目元にかわいい泣きぼくろがあるのさ、それも2つもね」と、確かにそう言ったはずだ。今までの話と状況は、全て辻褄が合う。偶然にしては、いささか出来すぎているだろうか。

 信号が青に変わったので、しずかにアクセルを踏む。雨足が少し、強まってきたようだ。
「…すみません。立ち入ったことを、お聞きしてしまいました」
「気にしないで。私がお酒に酔って、勝手に昔話を喋っているだけだから」
 桐生は謝っておきながら、今抱いている憶測をどうしても確認してみたい気持ちになった。真実をありのまま話そうとは思わなかったが、もしこの女が本当に尾田のかつての恋人であったなら、ずっと抱き続けてきたであろう尾田への様々な気持ちを、少しでも晴らしてやりたいと思ったのだ。
「…ちなみに、その彼の勤め先の名前、覚えておいでですか?」
 女はえぇと、と少し考えるそぶりを見せた。
「たち…かわ不動産?たち…ばな不動産?とか、そんな名前だったと思うわ」
「…………そう、ですか」
 それは、もう二度と会うことはないと思っていた尾田の大事な忘れものを、長年仕舞われた引き出しの中で見つけたような、そんな不思議な気持ちだった。尾田の黒豹のようなしなやかな背中を思い出す。過去の悪行を忘れてはいないが、それでもなぜか憎みきれない男だった。お前が話していた通りの綺麗な女だな、とそっとその背中に向けてひとりごちた。

 A駅のロータリーで停車し、女はメーターに記された代金を支払った。
「つまらないおしゃべり、聞いてくれてありがとう」
 そう言って荷物を取り、タクシーを降りようとするのを、あの、と呼び止めると、はい、と女は動きを止めた。
「雨が強まってきたので、傘、あるものでよければ使って下さい」
「そんな、大丈夫です。お返しできるかわからないし、もう家も近いですから」
「返さなくても構いません。どうか、使っていただけませんか」
 でも、とまだ断ろうとする女を尻目に運転席を降り、車の後部に回りトランクを開ける。トランクの中には車の清掃道具と少しの私物、そして使い古しのくたびれたビニール傘と、まだ買ったばかりの新しいビニール傘が転がっていた。桐生は迷わず、その新しいビニール傘を手に取り、開いた後部座席のドアの前に立った。
「…本当に構わないの?」
 タクシーからは降りたものの、恐縮して傘を受け取ろうとしない女に半ば無理矢理傘を押し付ける。そんなことよりも、と桐生が口を開くと、え、と女は正面から桐生を見上げる形になった。
「尾田は」
「…え?」
「尾田は貴方のことを、話していました。目元にかわいい泣きぼくろが2つある、年下の恋人がいると。ろくに自分のことは喋らないくせに、貴方のことは自慢げに」
「……………」
「だから、他の人のところへ行ったなんてことはありません」
 瞬きすら忘れてしまったような顔で、女はしばらく立ち尽くしていた。その間も雨はふり続け、いよいよ女の髪やジャケットを濡らしていたが、女は気にも止めなかった。桐生も、額に落ちた雨粒がこめかみから流れていくのを感じながら、雨を浴び続けた。
「…あなたがキリュウさん?」
 不意に、女が問う。今度は桐生が驚く番だった。
「あの人がいなくなる少し前、なんだかすごいヤツが入ってきたって話してた。なんとなくだけど…あなたでしょ?」
 ふ、と笑って、こんな偶然あるのねぇ、と桐生がそれに答える前に小さく笑った。
「…お話、聞けてよかった。傘も、ありがたくお借りします。ありがとう、キリュウさん」
「………」
 そう言って女は傘をさし、軽く会釈をしてその場を離れた。尾田のその後のことを聞かなかったのは、聞きたくなかったか、もう察していたのか。自分のような気の利かない人間にはわからないが、彼女がそれを望むのならそれで良いのだろう、と桐生は思った。


 開いたままの後部座席を閉め、運転席に戻る。体は思っていたより濡れて、指先まで冷たくなっていた。タオルはトランクの中に入れてあったはずだが、なんとなくそのまま、雨粒が流れるガラス越しに外を見つめる。
「…不思議なこともあるもんだな」
 故人の残り香に触れることは寂しいが、嬉しくもあった。ソリが合わない部分は確かにあったが、もし尾田が生きていたなら、数年に一度、たまに会う飲み相手にくらいはなっていただろうか。尾田はフランス産の高いブランデーを好んでいたと記憶している。たしか最後に尾田に会ったのも、今日みたいな小雨が降っている日だった。今夜くらい、あの男のことを思い出してブランデーを飲むのも悪くないだろう。そう思って、桐生はハンドルに手をかけた。