東京の女

 神室町には唯一ひとつだけ神社が存在する。そのすぐ近くにレコード屋が店を構え、そしてその隣に、その喫茶店はあった。
 24時間、朝から晩まで魑魅魍魎が跋扈するかのように騒々しい神室町も、この神社がある界隈だけはわずかばかりにひっそりと落ち着いた空気が流れていて、冴島はそれが嫌いではなかった。たとえば夕暮れ時。ビルが立ち並ぶ神室町にはほぼ存在しないといえる木々が、静かに揺れる音。密やかな木漏れ日。たとえば夜深く。仕事上がりのホステス達が屯するかたわら、誰も注意を払わずまるで空気みたいに存在しながらも、温かく寄り添うように建つ鳥居のそばで、少しだけ自然の香りが濃くなる境内。あぶくのような日々のなかで、ほんの少し喧騒を忘れられる場所として、人知れず冴島は自分のなかでこの界隈をそう位置付けていた。


 その喫茶店を見つけたのは偶然で、外から見てもつつましいショーケースしかなく、どこか控えめで目立たない看板が置かれた店構えは、この街で本当に商売をやる気があるのかどうか首を捻ってしまうくらいのものだった。その日は笹井組での仕事が早く終わり、日の明るいうちに自由になったので、件の神社のある道を通って帰路につこうとしていたところだったように思う。レコード屋の前に差し掛かり、ふと、靖子が好きな歌手が新譜を出した、と昨晩言っていたのを思い出し、土産に買って帰ってやろうかと店に入りかけた時だった。
 隣の建物から箒と塵取りを持って、女が出て来た。女は建物の前の道を手広くすばやく箒で掃き、ゆっくりとした動作で集まったごみを塵取りに集め、ふと神社の方を見上げ一瞬止まり、さっと踵を返し建物の中に戻って行った。その無駄のない一連の動作を、気づけばなぜか全て目で追ってしまった。なんとなく目で追ってしまう形容し難い雰囲気を、その女は纏っているように思った。そこで、その女が入っていった先が喫茶店であることに気がつき、どんな店なのかと興味を持ったのがきっかけでその喫茶店に足を踏み入れたのだった。


 ひんやりと冷たい金属の取手に手をかけ、重い扉を開く。からんからん、と乾いた音を立ててドアベルが鳴った。中は薄暗く、目がその暗さに慣れるまでに少し時間がかかる。カウンターとテーブル席が数席しかない小さな店だったが、客は入っていない。まさかまだ営業時間前だったかと考えたが、こんな時間帯に営業していない店はないだろう、と思い直しもう一歩進むと、いらっしゃい、とカウンター越しに女が振り返り声をかけた。先ほど店先を掃除していたあの女だ。「お好きな席にどうぞ」と、女は少しだけ目元を緩めた。


 冴島はコーヒーの味の違いなど大してわからぬ男だったが、その店のコーヒーはなにか懐かしく良い香りがするように思った。窓辺の席を選んで座ったものの、窓は曇り硝子になっていて外はぼんやりとしよく見えない。だが、硝子越しに入ってくる外の光が、まるでびろうどのようにきらきらとまろやかになっているのが良いと思った。
 コーヒーを飲む間、女は喋りかけてくるわけでもなく、忙しなく働くわけでもなく、まるで息を潜めるように静かにカウンターの奥で本を読んでいるようだった。冴島よりは些か歳上に見えるが、まだくたびれるというには程遠い。髪をゆるくまとめ、こざっぱりとしたブラウスを着ている。先ほど見た時と同じで、なにか他の神室町の女達とは違う空気を纏っているように思えた。その空気の正体も、商売気があるのかないのかもわからなかったが、店の中は掃除も行き届いており、本棚に置かれた雑誌や漫画類はそこそこ日焼けし年季の入ったものが目に留まった。人知れず存在していた喫茶店は、思ったよりも長い間営業しているのかも知れない。


 あの日をきっかけに、冴島は時折その喫茶店を訪れるようになった。笹井組の仕事が落ち着いた時や、少しばかり時間を持て余す時。特に、血生臭いことがあった後は必ず寄り、それから妹の元へ帰るようにしていた。無意識に、暴力の残り香を削ぎ落とそうとしていたのかも知れない。冴島が店を訪れる時間帯にはあまり客がいないこと、誰も自分を知らないこと。自分の普段の生活とは程遠い場所で、ひとりきりで傍観者になれることが心地良かった。去った故郷の思い出、過去の夢。笹井の親父には感謝しきれないほど感謝しているし、笹井組の一員となったことは決して後悔などしていなかったが、普段考える暇もない、むしろ考えないようにしていることばかりがなぜかその喫茶店の中ではぼんやりと頭を過った。
 その日、タバコに火をつけようと胸ポケットに手を入れると、そこにあるはずのライターが無かった。思い返してみれば、事務所に置いてきた気がする。念のためスラックスのポケットも一通り確認してみたが、やはり空を切るばかりだった。仕方がないのでカウンターの方を見る。正確には、あの女主人を。喫茶店ならば、マッチの一つくらいはあるだろう。


「すまん。マッチ、貸してくれへんか」
 今日も変わらず貝のように静かにカウンターの向こうで本を読んでいた女が、ふと顔をあげた。
「マッチ?ええ、もちろん。…少し待って」
 カウンターの下に引き出しがあるのか、少し身を屈めてから立ち上がり、マッチを手にしてカウンター端のスイングドアを通りこちらに歩いてくる。何度か店に来ているが、注文と会計をする時以外に言葉を交わすのはこれが初めてになる。なにか落ち着かない感じがした。
「どうぞ。あげるわ、これ」
 目元を緩めて女がマッチをよこした。女は寡黙ではあるが、最近目の中に少し親しみの色を感じるように思う。マッチを手渡すその一瞬、女がテーブルの上に置かれたタバコをなぜか懐かしそうに見つめたのが分かった。
「すまん、助かるわ。おおきに」
 マッチには店の名前が印刷されている。オリジナルのマッチだった。一本ケースから出しタバコに火を付ける間に、女は踵を返しカウンターの方へ戻ろうとした。なんとなく視線をマッチに戻すと、窓際の席がお気に入りね、と女が言った。他に客はいないのだから、無論自分に向かって喋りかけているのだが、まるで想定していなかったので少し反応が遅れる。
「…日当たりがええからな」
「そうね。私もその席が一番好きだわ」
 ゆっくりとスイングドアを抜け、カウンターに戻った。いつもの定位置のあたりで、壁側にもたれ掛かる様にして立っている。
「ほうか」
「関西出身なの?」
「…今日はよぉ喋るんやな」
 言葉を発してから嫌味のように聞こえたかと思ったが、女は気にしない様子で「本、ちょうど読み終わったから」と続ける。
「今の時間帯は暇なのよ」
「今暇やったらいつ忙しくなるんや?」
 今はもうすぐ17時になろうかというところだ。喫茶店ならば、今くらいの時間帯が一番の掻き入れ時だろう。今閑古鳥が鳴いていては、一体いつ客が来るというのか。
「この店はね、夜の方が忙しいの。ホステスとか、近くのストリップ小屋で働いてる子たちとか。そういう子たちが、仕事始まる前とか終わった後に休憩しにくるのよ」
 確かにここからピンク通りは目と鼻の先だ。そういう客層であれば、確かに今の時間帯に客の入りが悪いのもうなずける。
「えらい遅くまでやってるんやな。…ここはずっと一人で?」
「この店は主人が始めた店でね。2年前に主人が亡くなってからは、一人でやってるわ」
 主人が亡くなって。
 その言葉を聞いた時、あ、と思った。今までわからなかった、女が纏っていた形容し難い雰囲気の正体が分かった気がした。
 遠い昔、同じ空気を感じたことがある。親父が死んで、しばらく母親と二人で暮らしていた時。まだ靖子と義理の父親と暮らす前のことだ。この女主人と、二人で暮らしていた時の母親の姿がどこかでつながった気がした。
 けなげに隠そうとされ、でも隠しきれなかった。その雰囲気の正体は、滲み出る寂しさだ。


 あの日言葉を交わしてからというもの、店に足を運べば一言二言、世間話をするようになった。靖子への土産に買いそびれていたレコードを買い、それを持ち込んだ日には何を買ったのかしつこく聞かれ、中身を見せるともう聞かない古いレコードがあるからあげるわと数枚渡されたり、うちにはコーヒーチケットってものがあるのよ、買えば2杯分もお得よと半ば押し売りに近い形でチケットを買わされたりと色々だったが、悪い気はしなかった。
 夜遅くに通り掛かれば、女主人が言った通り店にも人影が見られ、昼間よりは随分とにぎやかそうだった。なんとなく店に入るのが憚られたので、店の前の神社のそばでタバコを吸って休憩していると、聞き慣れた乾いたドアベルの音が鳴り、客の女達が連れ立ってハイヒールを鳴らし、軽やかに出て行った。多くの神室町の女達は派手に、或いは色っぽく着飾り、長い髪をふわふわとなびかせ歩きにくそうなハイヒールを軽々と履きこなし、猫の様に笑う。自分や靖子とは別の生き物の様に見えた。
 客が出て行ってからドアが閉まるほんのわずかな間に、客と談笑しながらも小気味よく働くあの女主人の姿を見た。こちらの方に気がつくことはなく、ドアはそのまま閉まった。
 すると、すぐにあの女主人が出てきて「サキちゃん、忘れ物!」と声を上げながら小走りで先程の客を追いかけて行くのが見えた。サキちゃんと呼ばれた女はすぐに振り向き、わぁ、マスター、ありがとうと眉毛を下げる。常連客のようだ。女主人は返事代わりに手をあげ、全く世話が焼けるんだから、と呟きながら、でもどこか悠々とした顔をして店の方に引き返してくる。まずい、と思ったがすでに遅く、女主人は冴島の姿を捉えていた。
「あら。覗き見?」
「…ちょっと通りかかっただけや。ほんまに、夜は忙しいんやな」
「嘘だと思った?」
 女主人はいたずらそうな顔で笑った。
「寄っていかないの?コーヒーチケット、まだあるでしょ」
「…遅なると、妹が心配するんや。また次にするわ」
 一瞬眩しいような顔をして、静かに目元を緩める。頭上で葉が夜風に吹かれざわざわと揺れた。
「…大事なものがあるのは良いわ」
 また今度寄ってね、と一言残して、女主人は店の中に戻って行った。気づけばタバコは指の間でじりじりと短くなりすぎていたが、なんとなく火が消せず、しばらくそのまま店の窓から漏れる明かりを見つめた。


 次の日の夕方、真っ直ぐ家に帰ると、靖子が花を飾っていた。ふ、と鼻を甘くくすぐるこの香りは、金木犀だろうか。懐かしい母のような香りがした。
「あ、おかえり、お兄ちゃん」
「おう、ただいま。…それ、金木犀か」
 靖子は花瓶を持ったまま、そうやねん、と嬉しそうににっこり笑った。
「いつも行く八百屋さんがな、庭に仰山咲いたから、靖子ちゃんにあげるって。ええ匂いやろ」
「ほんまやな。なんか部屋が明るくなる気がするわ」
 それを聞いた靖子は満足そうに頷いて、茶袱台の上に花瓶を置く。
「お茶飲む?」
「ほなら、お願いするわ」
 わかった、とまたにっこり微笑んで台所の方に向かう靖子を見届け、茶袱台の脇に置かれた座布団に座る。窓から差し込む夕日が、花瓶に挿された金木犀をわずかに照らした。懐かしくどこか寂しい香りが、秋の訪れを実感させる。秋はきれいだが少し寂しい。ふと、あの喫茶店の女主人を思い出した。
 さっぱりとしたその横顔に、カクテルのピールのように、少しだけ香りづけしたような僅かな寂しさを滲ませて。
 それでも女は、毎日気丈に生きている。
 冴島はその女を、美しいと思った。