彼女はいつも街角のカフェのテラス席の一番端っこの席に座って、コーヒーカップを片手にひとり、本を読んでいた。ほぼ毎日のことだったので、顔を覚えてしまった。彼女がいる一角だけ世界から切り取られたような様子で、なぜだかすごく目立って見えた気がしていた。
その日はなんだか機嫌が良くて、経緯は忘れてしまったのだが、とにかく機嫌が良かったので、ふとしたはずみで彼女に声を掛けた。後でシャルに話したら『自分から?めずらしい、他人に興味なんてないと思ってた』と言われた。その指摘は間違ってはいない。別に興味があったというわけでは、決してない。ただの暇つぶしみたいな、軽い気持ちだっただけなのだ。つまるところ、ただばかみたいに機嫌が良かったのだ。
「いつもひとりで本読んでるね」
そう声を掛けると、彼女はふと顔を上げて俺を見た。特別美人というわけでもないが、なんとなくかわいげというか、愛嬌があった。年は俺より少し下くらいだろうか。いくつになっても女性の年齢を読み解くのはむつかしい。
「……ええ、まあ、これくらいしかすることがないですから」
彼女はちょっと困ったような顔をして答える。それほど警戒はされてないようだった。
「ところで、あなた、誰ですか?」
「俺はクロロ。君の名前は? 本好きなの?」
そう言って勝手に彼女の向かい側の席に座った。それを目ざとく見つけたギャルソンが注文を聞きに来る。
コーヒーを、と言うと、かしこまりました、と返事をしてギャルソンは颯爽と去っていった。
それをたっぷり見届けてから、彼女は口を開く。
「わたしはName。そこまで読書家というわけではないけど、本当にこれくらいしかすることがないのよね」
「それは残念だな。俺は本好きだよ、古書は特に。……することがないっていうのは?」
Nameは読みかけの本に栞を挟んでぱたりと閉じ、一口コーヒーカップを啜った。知らない男に声掛けられて警戒もせず嬉しがりもせずこんなに落ち着き払って、なんだか妙でおもしろいやつだなあと思った。「それラテ?」「そうです」カチャ、と静かな音を立ててソーサーの上にカップが置かれた。
「最近、仕事をやめたばかりなの。いろいろあって、お金にはまだそんなに困ってないから、ゆっくりしようと思ったんだけど。でも自分でも驚くくらいなにもすることがなくて」
「へえ。それは贅沢な悩みだね」
「それは自分でもわかってる」
Nameは苦笑した。笑うと形の良いくちびるがきれいな線を描いた。クロロさんは、と彼女が言いかけたのでクロロでいいよ、と訂正する。
「クロロは、何をやっているの?」
「俺? 俺はね、盗賊」
Nameがへ、とあっけにとられたような間抜けな顔をしてこちらを見た丁度そのとき、ギャルソンが俺たちのテーブルにコーヒーを置きに来た。ありがとう、と言うと彼はごゆっくり、と丁寧にお辞儀して去っていく。
「それ、本当?」
Nameは目を丸くしたままだ。それでもまだ目に警戒の色はなかった。この子、警戒っていう言葉を知ってるかな。ギャルソンが持ってきたコーヒーを一口啜る。程よい苦味と香りが、口の中いっぱいに広がった。
「ああ、本当だよ。お宝をいっぱい盗むんだ。よかったら今度、君にも見せてあげる」
「……なんだかちょっと変わった人だとは思ったけど。おもしろい人」
Nameは何を思ったかうふふと笑い出した。君も十分おもしろいと思うよ、と俺が言うと、そんなことない、と言ってまた笑った。
「ねえ今から暇なんだろ、どこか遊びにいかない」
「名案。これから何しようか、悩んでたとこなの」
うれしそうにティーカップの取っ手を握った彼女は残っていたラテをぐい、と飲み干した。いい飲みっぷり。それを見て、つられて俺もコーヒーの残りを飲み干し、ラテとコーヒーの代金をテーブルに置いて席を立った。
二人で大通りを軽い足取りで歩いていく。彼女は最近は人とこうして出かけたりすることも少ないらしく(だってふつうはこういう時間帯はみな仕事をしてるものでしょ、と彼女は口を尖らせた)楽しそうな雰囲気が伝わってきた。ウィンドウに飾られているコートや鞄を見てあれがかわいいとか、これはいまいちだとか、そんな他愛もないことをしているだけなのに俺もだんだん本当に楽しくなってきてしまった。高級ブランドのマネキンが身に纏っているもの全部、彼女に買ってあげたいような気持ちだ。なんだか自分が自分でおかしかった。
「クロロはこの街に住んでるの?」
「今はね」
「いろんなところに住んだことがあるのね」
「まあ、仕事柄、ね」
盗賊だものね、と言ってNameはくすくすと笑った。わたしはこの街ばかりよ、と彼女は続ける。
「でもここ、いい街だよ。気に入ったな」
「わたしも好き。きっとずっとここにいるんだと思う」
実際、古い石畳の華やかな古都と彼女は、この上なく合っていた。大通り沿いに植えられている大きな木も、河の上に架かっている立派な橋も、公園の冷たいベンチも、街角でジプシーが売っている花も、全てが彼女のためにあった。
「俺もそれがいいと思う」そう言ってもしばらくたっても返事が返ってこないので不思議に思い隣を見ると、そばで歩いているはずのNameの姿がなく、後ろを振り返ると公園のかたわらにあった売店でアイスクリームを買っている彼女を見つけた。クロロも食べるでしょ、と言って二人分のアイスクリームを持ってこちらに走ってくる。
「さっき奢ってもらったから、お礼」
そう言って俺にひとつ差し出す。思わず笑った。
それからまたずいぶん歩き、もう日も暮れかけていたし喉が乾いたので、たまたま見つけたバーに入った。薄暗い店内の中に大きなテレビがバーの奥に備え付けられていて、そこいらに置かれた立ち飲み用の背の高くて小さいテーブルをたくさんの人が囲み、思い思いに酒を飲みながらテレビに写されるフットボールの試合を見て興奮したり野次を飛ばしたりしていた。いわゆるスポーツバーだ。俺達はその店おすすめだという黒ビールを飲みながらその試合を観た。
「あんまり楽しそうじゃないみたい」
唇についた泡を舐めとり、彼女が言う。
「あいにくスポーツには興味がないんだ」
「わたしだってフットボールなんかに興味はないけど、地元のチームくらいは知ってるわ」
そう言ってNameは地元のチームを教えてくれた。赤いユニフォームのほうらしい。回りにいるやつらはみな赤のサポーターらしく、赤がファインプレーをする度にまるでばかみたいに盛り上がっていた。特に興味は湧かなかったが相槌だけ打っておいた。
しばらく飲んで、黒ビールのつまみにアスパラの生ハム巻きをつついた矢先、赤ユニフォームがゴールを決めた。店内が沸きかえり、そこらじゅうの人びとが喜びのあまりハグやキスをしていた。むせかえるような、すごい活気だった。
隣で飲んでいたNameが突然「わっ」と小さく叫び声を上げたので何事かと思い振り向くと、彼女はいい年した知らない男から抱きつかれていた。男はたいそう興奮していた。Nameは一瞬驚いたようだが店内の雰囲気に圧倒され、なんだかよくわからないが笑っていた。そんな様子を見て彼女らしいなあという気持ちと、正体不明のもやもやとした気持ちが渦巻いた。ぐいと腕を掴んで引き寄せる。「抱きつかれちゃった」と俺のほうを見上げ楽しそうにしているNameの目の中に、きらきらと宇宙が輝いていた。キスしてみようかなぁと少しの間考えて、やめた。