窓を開けると、少し埃っぽいざらざらした空気が頬に触れた。騒がしく猥雑な街は、日が傾き始めると途端に本領を発揮する。朝吸った空気よりも、濃密に人の気配を感じた。
「なんだか、蒸すわね」
そう言いながら下着姿にガウンを羽織るNameは窓からの橙色の夕陽をまともに浴びて、気怠げな光を放っているように見えた。
「お茶飲む?ビールもあるけど」
台所に移動したNameは背丈の半分程しかない小さな冷蔵庫に手をかける。
「…茶でええよ」
「そう?わかった」
Nameはそう答えると、するりとセピア色のプラスチックのカップを2つ用意し、片手に重ねたカップ、片手に麦茶が入った茶瓶を持って冴島が座る卓袱台の方に歩いてきた。
冷えた麦茶を飲みながら、夕方の風に当たった。この部屋に初めてきた時には真新しく感じた家具や窓からの景色が、今の自分には親しさすら感じられるようになった、と冴島は思う。ここの部屋に長く居すぎると、心地の良い煙に巻かれて、自分の為すべきことができなくなるような甘い恐れみたいなものがあった。上野誠和会への襲撃の予定は、もう明後日に迫っている。それだというのに、まだ冴島は、この女への別れの言葉を言えないままだった。
しかし、既に腹は決めている。
麦茶の入ったカップが空になって少し手持ち無沙汰になり、タバコを探り火を着けようとすると、Nameはそれを見るや否や、台所の流し台の下の開戸から灰皿を取り出し、戻ってくるなりそれを卓袱台の上に置いた。ゴトリ、と無骨な、この部屋には似つかわしくない音が重たく響いた。話を切り出すなら今だ、と思った。
「もう、ここには来れへんようになる」
その言葉は、紙みたいに軽いくせに、確実にこの部屋の空気を両断した。時間が止まったようにこちらを向いたままのNameは、たっぷり時間を置いてから、「…なに?お務めでも行くの?」と答えた。
「…まぁ、そんなとこや」
ふぅ、と煙を吐き出す。タバコの煙は少し気持ちをぼんやりとさせる。だから、この業界の人間は専ら喫煙者が多い。口に出したことはないが、冴島は心の奥でそう思っていた。素面でこの世界を生きていけるほど、精神も肉体もタフな人間はそうそう居ない。
「あの子は、……あの妹は、どうするの」
少し恨めしいような目をしてNameは聞いた。
「…組でどうにか、面倒見てもらうつもりや」
Nameには申し訳のないことだが、一番気がかりなのは靖子のことで間違いなかった。だが、自分も靖子も、笹井の親父に救ってもらった命なのだ。もちろん不便な思いをさせるだろうが、どうにか中学も卒業した。組の助けがあれば、一人でもやってはいけるだろう。そう、思い込むように努力していた。
隣に座るNameは眼を伏せている。西日がNameのまつ毛を照らし、顔にうつくしい影を作っていた。目元の化粧は少しよれ、きつく結ばれたくちびるに塗られた口紅も大分薄れている。それでも、親しみを感じる、ほんの少し歳上の、愛すべき女の顔だった。
「もう、決めたことなの?」
冴島が頷くのを目の端で確認すると、彼女は悲痛そうに眉根を寄せた。
「……やくざはいつだって男の事情を優先する。一緒にいても、幸せにはなれないわね」
頬に落ちているまつげの影が、少しだけふるえた。
長い沈黙のあとNameは、それ、吸い終わったら出て行って、と冴島の方に目も暮れず弱々しく呟いた。さっきまで同じベッドの中にいたのに、今でははるか遠くに行ってしまったような気さえする。
「…すまん。あんたには俺みたいなんやなくて、もっとええ奴がおるはずや」
歯が浮くような使い古された言葉でも、どうにか伝えなければいけない。そう思って口にしたが、やはりそれは、口に出した瞬間に、吹けば飛ぶような軽くて生っ白い言葉になってしまった。
だが、これが飾らぬ本心なのだから仕方がない。冴島には暴力を使いこなす才能はあっても、うまい言葉で人をあやしたり、駆け引きしたりという才能は持ち合わせていないのだ。ただ愚直に、真っ直ぐに生きるしかない。それが普通の人間の歩く道ではなくとも、だ。
「冴島くんのそういうところが嫌い」
「……」
「やくざのくせに、ばかみたいに聞き分けがいいところ」
4月の暖かい風が二人の髪をわずかに揺らした。この部屋に巣食っている重い空気とはうらはらに、外は春の忌々しいくらいにおだやかな夕暮れなのだった。
「……返す言葉もないわ。せやけど、俺はもう親父と、兄弟に出会ってしもた。出会ってしもたらもう、戻られへんのや」
「……」
それは、半ば自分自身への弁明に近かった。渡世の絆は他の何にも代え難い。それは冴島の世界では真実だった。たった一人の肉親と、目の前の可哀想な女を手放すことになっても、冴島はその生き方しか知らないままだった。
「いろいろ悪かったな。これが最後の、一吸いや」
思いっきり息を吸い、そして吐いた。煙はまた少し冴島の頭をぼやかし、しばらく二人の間をさ迷い、静かに消えていった。
「嫌いだなんてうそよ」
立ち上がり、卓袱台の横を通り抜け、靴を履こうと背をかがめた冴島の背中をNameの声が引き止めた。振り返ると、彼女は立って夕陽を背中一面に浴びている。そのせいで、顔が影になってよく見えず、どんな表情をしているのかわからなかった。
「でも、…待ったりしないから」
「……俺は…」
「もういいの。…行って。体、大事にね」
やっと目が少し慣れ、立っている女の顔の輪郭がまともに見えてきた。目の端がかすかに、光っているのが冴島にはわかった。それを見た瞬間、押し殺したNameの本心に触れた思いがした。
今までおおきに、元気でな。そのような平凡な言葉ではもう、この部屋を去ることはできない。たまらなくなって、冴島はNameを思い切り抱きすくめた。