その少し奇妙とも言える客が訪れたのは、風が強くぐっと冷え込んだ寒い日だった。彼女は鼻の頭を少し赤くして、コートの襟を立てていた。開店してまだ早い時間にやって来たので客はゼロ、スタッフのいろはもまだ出勤しておらず、がらんとした店内に彼女は足を踏み入れ、しばし立ち尽くした。呆然と立ち尽くしたと言っても良い。ただ立ち尽くしただけではなく、他でもない俺の顔を言葉をなくしたかのように見つめているのだから、居心地が悪いことこの上なかった。
「いらっしゃい、好きに座ってくれ」
そう声をかけるまでたっぷり俺を見つめ続けた彼女は、なぜだか今度は今にも泣き出しそうな目をして下を向いたままカウンターの1番端に腰掛けた。
「…生ビールください」
「ビールね。グラスとジョッキ、どちらにする?」
「……グラスで」
オーダーを聞く間はまったく目を合わさなかったくせに、グラスを準備し始めるとまたさらに痛いくらいの視線を感じる。もしかして顔の傷を見て怖がっているのか、という疑問がふと頭に浮かんだ。顔を横断するこの傷とはもう随分と前からの長い付き合いなので、そこにあって当たり前の存在になってしまい、客観的に見ると決して見栄えの良いものではないことを時折忘れてしまうことがある。しかし、はたしてそれだけの理由でそこまで無遠慮に見つめるだろうか。子供でもあるまいし、それなりの歳の、それも普通に常識を弁えていそうな女性がそこまでするものだろうかとも思う。まあどちらにしろ、彼女はただの奇妙な客であり、金を払ってくれるのであれば穴が開くほど見つめられようが怖がられようがどちらでも構わないのだ。
埃ひとつなく丁寧に磨き上げたグラスを手に取り、ビアサーバに手をかけ優しく取手を倒すと、美しい黄金色の液体がベルベットのようにグラスに流れ込んだ。この瞬間はいつ見ても良い。最後に絶妙な量の泡を注ぎ、グラスを軽く拭いてコースターを取り彼女の目の前にそっと置いた。
「どうぞ」
「……」
彼女がグラスを手に取る瞬間、目と目が合った。その瞬間、全く知らないと思っていた彼女の顔が、どこか懐かしいものであるような気がして一瞬動きが止まった。だが、思い返してみてもそれらしき記憶が見つからない。客の入りも決して良いとは言えない店だ。今まで来た客の顔なら、忘れていない自信がある。その記憶を辿っても、ピンとくるものはなかった。
「お客さん、前にも来てくれたことあるか?」
そう聞いてみると、彼女はまた目をわずかに潤ませて首を振る。そのまま泣かれると困る、と少し焦った。そのくらい、何か迫るものがある表情だったのが気になった。彼女は何かを振り切るようにビールを一気に半分ほど飲み干し、また押し黙る。
「すまんな、どこかで会ったことがあるような気がしたんだが。まぁ、ゆっくりしていってくれ」
この普通とは言えない様子を見るに、あまり関わらない方が良いのかもしれない。一人で店を訪れる客には2パターンある。なにかくだらないことを喋りたくて酒を飲みにくるもの、ただ一人の時間の延長線として酒を飲みにくるもの。彼女は今までのやりとりから察するに、喋りたくて酒を飲みにくるものたちとは違うということは100%自信を持って言えた。そういう場合は最低限のことしか話しかけず、そっと心ゆくまで飲ませてやるのが定説なのだ。
そう考えつまみのナッツとチョコレートを小皿に乗せて出そうとした矢先、ジャズイベント、と彼女がわずかに小さく呟いたのが聞こえた。なにかと思えば、彼女の目線の先には今度開催する予定の音楽イベントのチラシが壁に貼ってあった。常連客の一人がジャズバンドを組んでいるというから店で演奏させてみればなかなか悪くなく、それに乗っかり他の客も演奏できるものがいると言うので、それ以来ツテやら何やらでいろいろなミュージシャンを呼び、定期的にイベントとして開催していた。
「二ヶ月に一度、店で音楽イベントをやってんだ。よかったら、今度ぜひ」
軽い気持ちでそう言って、つまみの小皿を彼女のグラスのそばに置いた。
「……ジャズ、まだ好きなんですね」
「……まだ?」
彼女はたしかに、まだ、と言った。
彼女のどこか不審な動作は、俺の事を知っているためだろうか。この店以外でどこで知り合うことができるのか、いささか検討もつかなかった。この土地に来てからは自分の店のことで忙しく、たまにある休みには勉強も兼ねて他のバーに足を運ぶことが多い。いわゆる夜の店もご無沙汰しているため、全く身に覚えがないのだ。何を問えばいいのか検討もつかず、しかしとりあえず口を開きかけたそのとき、チリンチリンとドアベルが鳴り客の来訪を告げた。そこからは珍しく客が立て続けに入り、彼女と話すタイミングを失ってしまった。結局その日はもう1杯マティーニを注文し、彼女はそれを飲み干し無言でそのまま帰っていったのだった。彼女の姿は、なぜか心に不思議な余韻を残した。
ネイビーのカクテルドレスを着た女と、薄暗いラウンジで酒を呑み交わしている。4年前の事故のあと、2年に渡る昏睡状態から目覚めて以来同じ夢を繰り返し見た。
夢を見ている間は女の顔は見えているはずなのに、覚めた後はもやがかかったようになりはっきりと思い出すことができない。夢を見ている間はとても心安らかでいられるのに、起きたあとは決まって辛い気持ちになった。それはまるで、行き先も見えない霞の中を独りで歩くような気分だった。
昏睡状態から目覚めた後、事故のことはもちろん、事故に遭うおよそ1年くらい前からの記憶がうまく思い出せないことに気付いた。それ以前の記憶ははっきりとしているのに、不思議とその期間だけは思い出そうとしても霧を掴むように手応えがない。「大怪我による一時的な記憶障害」。長い人生においてわずかな期間だとしても、全く思い出せない過去があるというのはまるで自分が自分でないように感じ、しばらくぼうっとした気持ちが続いた。リハビリに1年、この場所にこうして店を出すまで1年と、新たな人間として生きようともがいた時期に次第に薄れていたこの気持ちが、あの奇妙な客の来訪によってしばし思い出されることとなった。
あの客が来た数日後の夕方、オープンさえしていない店のドアを堂々と開ける者がいた。ドアベルの音につられ酒瓶の在庫チェックのメモを片手に目を上げると、これもまた奇妙と言える風貌の懐かしい男が立っている。
「…真島か」
「おう、元気そうやな。いつもの、お願いするわ」
真島はそう言って手をヒラヒラと振ると、カウンター席のど真ん中に腰掛ける。
「いつもの、っておめえ…1回しか来たことねぇじゃねえか」
「ヒヒ。そういや、Nameチャン来たか?」
「…誰のことだ」
聞き覚えのない名前だったのでそう問えば、いつものちゃらんぽらんな様子とは裏腹に真剣そうな顔をしている。
「冗談やろ柏木さん。Nameチャンのこと、忘れてしもたんか?」
たとえば本当に「Name」と呼ばれるその女が自分の知り合いだったとして、忘れたくて忘れているわけではない。お前もわかるだろう、という思いを込めて目の前の男を軽く睨みながら、アイスピックで氷を砕く。
「そうかぁ。柏木さんの記憶障害の時期とNameチャンが店に入ったくらいの時期は丸かぶりやったけど、女関係のことは覚えとると思ったんやけどなあ…そりゃあ殺生やなあ…」
「……」
背後の棚からワイルドターキーのボトルを手に取り、氷の入ったウイスキーグラスに注ぐと、甘くスパイシーな香りがした。コースターを取りグラスを置いてやると、柏木さんもなんか飲みや、と言うので同じものをもう一つ用意し、軽くグラスを傾け乾杯の合図をする。
「Nameチャンはあれや、柏木さんが贔屓にしてたラウンジにおったべっぴんさんや」
「…覚えてねぇ。そいつと俺はそういう関係だったのか?」
「そこまで首突っ込むほど野暮とちゃうわ!」
真島はそこで一口ウイスキーをぐいと飲んだ。
「でもNameチャンはあんたに惚れとったで。組であげた柏木さんの葬式にもちゃんと来て、泣きはらしとった。あれが忘れられんくてな、ちょっと前に大吾ちゃんからあんたが実は生きとるって話聞いた時、Nameチャンに真っ先に連絡したんや。もう何年も経っとるし、他に男作って結婚でもしとるか思たら、未だに柏木さんのこと引きずっとった」
「……」
真島はまだ大吾がどうの、ラウンジがどうのとペラペラと喋り続けている。話半分で聞きながら、ふとあの日の奇妙な客の女のことが頭を過った。彼女は俺のことを知っていそうな素振りだったし、あるいは彼女がそのNameという人物なのかもしれない、という願望にも似た思いつきが無様にも浮かんだ。だが、そのことを確認する手立ては彼女が再び店を訪れない限りないのだし、もしくは、全ては思い過ごしということも十分にあり得る。とどのつまり、わかったことは、何もわからない、ということだった。
真島が店に訪れた翌日、珍しく客入りが良かった。足立もたまったツケを払って行った。滅多なこともあるもんだな、と思いながら、夜もとっぷりと暮れ忙しさがひと段落した時、休憩がてら外の空気を吸いに通用口を開け裏の公園に入った。胸ポケットからタバコを取り出しベンチに座ろうとしたその時、先客がいることに気づいた。
ベンチに座っていたのは、他でもない、あの日訪れた奇妙な客だった。
「あんた…」
「あ、…」
彼女は驚きと焦りが隠せない顔でこちらを向いて立ち上がった。ベンチの上には、彼女が飲んでいたのであろうコンビニのコーヒーカップが置かれていたのが目に入る。
「…ウチの店はコーヒーも自慢だぜ。知ってたか?」
「……いえ」
「あんたが、Nameか?」
下を向いていた彼女が、ゆっくりと目を合わせる。その表情で確信が持てた。やはり彼女が、真島が話していたその女だったのだ。
「…真島さんから聞いたんですね」
「…すまねぇ。事故の後、所々記憶があやふやでな。あんたのこと…」
覚えていないんだ、と続けようとすると、彼女が言葉を遮る。
「聞きました。もしかしたら、わたしのことも忘れているかもって。ショックを受けるかもしれないけど、それでも会いたいかって聞かれて、迷わずはいって答えました。…だから良いんです」
すぐそばにある店の換気口から、タバコの香りが微かに漏れている。なんとなく、人恋しくなる香りだと思った。
不思議な気分だった。前に会った時、どこか懐かしいとたしかに一瞬感じたはずなのに、今となってははっきりとそう言える自信が持てない。この期に及んで、心のどこかで尻込みしている自分がいた。だが、かつてとは違い根なし草のような自分になったとしても、そういう風に長年だれかが自分のことを心に留めてくれていたというのは、悪い気はしなかった。
「…恩に着る。…思い出せるよう、努力する」
「いえ、思い出せないなら、思い出せないでいいんです。…仕方ないことだから」
だから、と彼女は続けた。
「だから、もう一度、わたしと出会ってください」
その真剣な瞳は、真っ直ぐに俺を映している。今度こそ、俺はその瞳を、確実に知っているような気がした。俺よりも随分と若いはずなのに、どこか落ち着いてみえる、長いまつ毛で縁取られた瞳。目を細めて笑うくせ、笑った時にできる鼻のしわ。それらを、確かに覚えている。
「……あんたも物好きだな。顔も体も傷だらけの、曰く付きもいいとこの人間だぜ」
そう呟くと、しっかり生き抜いてきた証です、と彼女は言い、俺の前で初めて笑った顔を見せた。
その笑顔を見て、俺は確信した。
俺はずっと、彼女の夢を見ていたのだ。ネイビーのカクテルドレス、薄暗いラウンジ。ジャズが響く店内は、秘密の会話を交わすのにうってつけだった。これからは夢を見た後でも、きっと顔を忘れることも虚しくなることもない。あの夢の話をしたら、彼女は笑うだろうか、それとも泣くのだろうか。