※警察や麻薬売買、街の描写など、全てフィクションです。
刺すような暴力的な日差しに思わず顔を顰めた。
海辺の大通り、それに面した広い公園、歩道橋。何度も通った、見慣れた景色。溜息をつきたくなる。
俺はヨコハマの街が嫌いだ。
住みたい街として毎年のように上位に格付けされるヨコハマは、旅行者も多く一見美しい街に見える。だが中を覗けば、長年掃除されていない納戸の埃のように、はみ出しものがうようよしている吹き溜まりのようなところ。それがこの街の実情だ。その所謂「汚い」部分は、殆どの住人には見て見ぬフリをされている。知らないフリ。聞こえないフリ。その割に、口だけは達者な奴ら。本当に馬鹿馬鹿しい。
横浜のシンボルマークの一つとも言える中華街にも、そんなはみ出しものがたくさんいる。Nameも、その中の一人と言えるだろう。
中華街に生きる中華系組織の男と、その日本人情婦との子。もちろん組織には馴染めず、日本人のコミュニティにも溶け込めない。そんな宙ぶらりんの彼女は、中華街の中心の通りからは外れたところにある、文字通り寂れた中国茶専門店で不真面目に店番をしている。いつからだったかはっきりとは覚えていないが、俺は時折彼女から情報を買った。警察も中華コミュニティには強く介入できず手を焼くことも多々あったが、こちらが優位に立ち回れるよう、必要な情報があれば彼女の力を借りた。もちろん、相応の謝礼を支払う、ビジネスライクでイーヴンな関係だ。ただそれだけの繋がりだった。
頭上には中華街の入口に鎮座する善隣門がそびえ立っている。またひとつため息をついて、数日前、Nameから連絡が来た時のことを思い出した。店の近くで悪いモノの取引を見た、と彼女は電話口で言った。麻薬取引の現場を見たらしい。見間違いじゃないだろうな、と念を押すと、何回か同じ男を見たから間違いじゃないはずだ、とのことだった。
中華街の中は勿論だが、中華街の周りも中華系組織の人間に少なからず監視されている。それを知ってか知らずか、そんな場所で取引を行うのはただの馬鹿か。もしくは末端の末端もいいところだろう。だが、大元に繋がる情報を見つける可能性が僅かでもあるなら、見逃すわけにはいかなかった。
Nameがいつも居る店の通りに入ると、店先にある電信柱に背を預けて立ち、缶ジュースを飲んでいる女が見えた。こちらに気づくと、缶ジュースを持っている手を上げて笑う。
「你好ー」
タンクトップにビーチサンダル。髪はラフにまとめられ、ちらほらと後毛が首筋に絡みついている。唇だけが祭りのリンゴ飴みたいに赤くあやしく、中華街の街並みと相まって、異国の街娼のように見えた。
「…」
「今日も眉間のシワ、すごいね」
「毎日いろんなヤツらが私の機嫌を害するものでね」
「それってまさか私も入ってたりしないよね」
「お前がそう思うならそれでいい。俺はそうは思わないが」
なぁにそれ?と何が可笑しいのかわからないがその女は笑った。出会ったときから変わらずそうだが、彼女はいつもヘラヘラしていて掴みどころがなく、機嫌が悪い時にははっきり言って癪に障る。
「それよりも早く、情報が欲しい」
「うん。現場の近くまで連れて行ってあげる」
彼女は背を預けていた電信柱から離れ、こっち、と歩き出した。
「店はいいのか」
「別に、お客さんあんまり来ないし」
確かにいつ店を訪れても、客はほぼ見たことがなく、閑古鳥が鳴いていた。店の稼ぎで食べているというよりは、父親の本業の方で金が入ってくるのだろう。
近道なのか、彼女はすいすいと狭い路地ばかり通っていく。ついでとばかりに室外機の上に飲み終わったらしいジュースの空き缶を置いて行った。暑さとそこら中から漂ってくる油っぽい食べ物の匂いと、多数置かれている室外機の生温い風に当たり最悪の気分だった。Nameがふと振り返って「綺麗なスーツに匂いがついちゃうね」と言った。それならば他の道を案内してくれと腹が立ったが、面倒だったので「いいから早く歩け」とだけ答えた。
ここ、と案内された場所は、中華街のエリアから1本道を挟んだところにある、パーキングと雑居ビルの間にある狭い場所だった。確かにそこまで人通りもなく目立つわけでもなく、クスリの売買にはうってつけだろう。
「売ってたヒトは、30代後半くらいの…背が高くて猫背の、細身のオニーサンだった」
「顔の特徴とかはあるか?」
うーん、と少し考えるそぶりを見せ、あ、と何か思いついたように口を開く。
「ニット帽、よくかぶってる」
「他には?」
「えーと…」
売買を見た時間帯や詳しい様子などを聞き、その日は一旦別れた。まず情報を貰い、その情報が本当に有力である、もしくは、それによって成果が出た場合のみ報酬を支払う。それがいつもの俺達の取り決めだった。それに倣い、今回もまず情報を持ち帰り、張り込みをしてみてからということになった。クスリの売買は現行犯でないと逮捕が難しい。うまく行く可能性は限りなく低いかと思われたが、幸い他の大きなヤマもなかったので、とりあえず賭けてみることにした。
結果的に言うと、1週間で事は動いた。
部下を手配し6日間張り込みをし、やはり駄目かと諦めかけたその翌日の7日目の夕方、まさに売買が行われた。すぐにその男らは現行犯逮捕となり取り調べをしたが、クスリを買った男は地方からの旅行者、売った男は大元のことは何も知らない末端のチンピラだった。逮捕はできたが、結局大きな収穫はなしと言える。薄々予測はしていたが、やはり苛立った。こればかりはどうしようもなかった。
喫煙スペースでのタバコの量が増えたことを見かねてか、一緒に動いていた部下がお疲れ様です、と声をかけてくる。
「あぁ。今回は、苦労をかけました」
「いえ。…あの、入間さんは歯痒い思いをされているかもしれませんが」
「?」
「それでも、少しでもヤクの被害者が減ったことは事実です。成果はゼロじゃありません」
部下は恐る恐る、しかし真剣に俺を見据え、こともあろうか俺を励まそうとしていた。青さが残るとも言える一途な目を見、一瞬、ふいに過去に亡くした人間を思い出し、少し反応が遅れる。
「…そうですね。…そんなに苛ついて見えましたか?」
「あ、も、申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
「フ、冗談です。確かにちょっとイライラしていました。…上に報告も兼ねて、ちょっと出てきます」
はい、お気をつけて、と礼儀正しく会釈をして俺を見送る彼は、なんとも真面目で正義感のある、警察官の見本のような男だ。自分が部下にするにしては出来すぎている。自分にももしかしたらそういう未来もあっただろうか、と考えかけたが、胸の底に苦い思いが蘇り、馬鹿らしくなって止めた。
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