青嵐のよる

 あ、とどちらからともなく声を上げた。
 数メートルほど先には、大きな体躯を少しだけ丸めるようにして立っている男のひとがいる。冴島さんだ、とすぐにわかった。夕暮れの淡い影が、なめらかに冴島さんに落ちている。表情ははっきりとは読めなかった。


 休日は午後、太陽が少し翳るころに犬の散歩に出かける。この犬は厳密にはNameの犬ではない。昔世話になった親戚の家で飼われていたのだが、その親戚が亡くなった際にNameが引き取り、もう丸二年が経った。
 この近くに住んでいるらしい冴島さんとは、以前にもこうして散歩中にばったり会ったことがある。犬はそれを覚えているようで、冴島さんの姿を視界に捉えるとすぐさま駆け出しそうになっていた。なんとか引っ張られないようにリードを引くが、なかなか力が強くうまく制御ができない。結果、小走りで冴島さんのもとへ急ぐ形となってしまった。近づいていくと、いつもキリリとした冴島さんの目が、ほんの少し優しくなっているのがわかる。


「冴島さん。こんにちは」
Nameか。元気そうやな」
「はい。冴島さんもお元気ですか?」
「あぁ。けど、ここ最近事務所にカンヅメでな。正直かなわん」
「それは…お疲れ様です」
「まぁ、お天道様の元堂々とお疲れ様言われるような仕事でもないけど、でもおおきにな」


 冴島さんは神室町に組事務所を構えている。真島さんは神室町ヒルズの高層階に悠々と大きな事務所を構えているが、冴島さんはそういった雰囲気が合わないらしく、東城会直系の組であるにもかかわらず、そこそこレトロな雑居ビルの中に事務所を持っている。一度だけ訪れたことのあるその事務所を思い出して、その中で、せこせこと働いている冴島さんを想像してみる。真面目だから、部下たちがやるような小さなことまで自分で処理しているのかもしれない。でも、こんな上司を持てるなんて組の人たちはとても幸運だと思う。冴島さんから、弟分や、と紹介された馬場さんと城戸さんも、見るからに冴島さんを慕い尊敬しているようだったのをよく覚えている。

「犬も相変わらず元気そうやな。名前、あんこ、やったか」
「ふふ。よく覚えてますね、よかったねあんこ」
 犬が嬉しそうにしっぽを振って、冴島さんの足下に飛びついた。あんこという名前はもちろんかつての飼い主だった親戚がつけたものだが、和犬の黒い毛並みとあんこという名前はなかなかかわいいとNameも気に入っていた。彼の大きな手が、わしゃわしゃと犬の頭を撫でる。
「どちらかと言うと猫の方が馴染みあるけど、犬もかわええもんやな」
 冴島さんの組事務所に数匹の猫がいたのを思い出した。そのとき懐いてくれた猫を撫でていると、あ、Nameちゃん毛ぇ気をつけて、これよかったらあとで使ってとコロコロを城戸さんが手渡してくれたのだ。
「犬といえば、もうすでにおおきな狂犬が一匹いますもんねぇ」
「せやな。あれはなかなか手ぇかかるわ」
「あはは。でも冴島さん、犬にも猫にも好かれそう。というか、動物全般」
「なんやそれ」
「人間にも、冴島さんに惚れてるひとたくさんいるじゃないですか。馬場さんとか、城戸さんとか」


 大きくておおらかで真面目で懐が深い冴島さんは、もちろん本人にはそんな気は全くないだろうが、天然の人たらしだ。まるで夜のキャンプ場のあたたかい焚き火みたいに、周りに自然と彼の人柄に惹かれたひとたちが集まる。Nameも、そのひとりだった。もう想い続けてしばらくになるが、もちろん、想いを告げようと思ったことはない。様々な壁、一歩を踏み出す怖さ。それを乗り越える勇気はずっと持てていないままだ。こうして偶然会ったり、真島さんを介して飲み会に誘われたり。ただそれだけで、まるで恋に恋する学生みたいに、嬉しかった。
「‥惚れる言うから、もっと色気のある話かと思ったけど、お門違いみたいやな」
「…そりゃあ、もちろん女性にもモテるでしょうけど」
 どうやろなぁ、と冴島さんが肩をすくめる。以前、真島さんが「兄弟は水商売の女の子らにめちゃめちゃモテる」と言っていたのを思い出した。そんなことはわかっている。謙遜なんてしなくていいのに、とNameは思う。まさか、自分のことを気遣っているわけでもないだろうに。
 自分から振ってしまったが、こういう話題は、大人になってからはお酒が入っているときのほうがありがたかった。どうしても自分の想いが邪魔をして、普段通りに素直に喋れなくなるからだ。お酒の力を借りれば少しは馬鹿も演じられる。そういうひねくれたずるい大人になってしまった。たぶん、冴島さんとは正反対の。


「…それよりも、Name。今からなんか、予定あるんか?」
「…今からですか?今からは…うちに帰って、犬にご飯をやって。それから自分のご飯を作って食べます」
「ほぅか。ほなら丁度ええ、一緒に飯、食いに行かんか」
「え?」
「もちろん、あんこにご飯あげてからや」
 思いがけない誘いに、耳を疑った。今まで数人で飲むことはあっても、二人きりでご飯なんか行ったことがない。こんなときでも犬を気にかけてくれているのがなんとも冴島さんらしいが、どう答えたものかと一瞬考えていると、「さっき仕事終わったとこでな、腹ぺこなんや」と追い討ちをかけるように冴島さんが言った。答えあぐねている暇はなかった。
「わ、わたしでよければ、もちろんご一緒したいです」
「さよか。よかったわ」
 なんだか照れ臭くて、犬の頭を撫でた。犬はいいな、自分の気持ちに正直に生きられて。嬉しいときは素直にしっぽを振れば良い。人間みたいに、いろんなしがらみに身動きが取れなくなることはない。
 駅前の居酒屋でええか、と冴島さんが聞いたので、はいと答えた。
「先行って始めとるから、用意できたらおいでや」
「わかりました、ありがとうございます」
 名残惜しそうな犬を横目に、じゃあまたあとで、と軽く会釈をして冴島さんのもとから離れる。少し歩いてこっそり振り返ると、まだ同じ場所からこちらの方を見ていたのでどきりとした。



***


「はー、おなかいっぱい。ごちそうさまでした」
「あぁ、よう飲んで食ったわ」
「チェーン店って、実家に帰ってきたみたいな安心感があって好きなんですよねぇ」
「ほんまか。なんや味気ないとこですまんかったなと思ったが、楽しんだなら何よりや」
 いきなりの二人きりのご飯で、雰囲気の良い落ち着いた居酒屋に連れて行かれる方が緊張してしまう。たぶん、冴島さんもそれをわかって敢えてチェーン店を選んだのだろうな、とNameは思う。二人きりで飲みに行ったとしても、本当に、なんの思惑も下心もまったくないのだ。相変わらずのやさしさを感じると同時に、真綿で首を絞められているような少しだけ苦しい気持ちになる。だが、チェーン店が好きというのはあながち嘘ではない。個人店ももちろん好きなのだが、どこにいても同じ味を味わえるのはなんとなく安心するし、あの肩肘張らない雑多な雰囲気が嫌いではなかった。


 二人で居酒屋を出て、肩を並べて駅前の道を歩く。もう春も終わりだろう。肌寒いとばかり思っていた夜の風の中に、少しだけあたたかさを感じる。夏に向かって自然のパワーがむくむくと膨れ上がっているのだ。
 やわらかい風が襟足を少し揺らすと、なんとなく先程の居酒屋での光景が蘇った。
 汗をかいたジョッキを持つ、治りかけの傷跡のある手。もう少し近づけば触れ合うほどの肘と肘。笑った時にできる目尻のしわ。
 それを全部ひとりじめしたのだ、と考えると、先ほどの苦しい気持ちが嘘みたいに逃げていった。いまも、手を伸ばせばすぐ届く距離に冴島さんが歩いている。いつもより心なしか距離が近い気がした。二人とも、アルコールが程よく回っているのかもしれない。


 火照った頭を冷やすかのように、なんとなく空を見上げた。夜でも街灯やネオンライトが煌々としてあかるい東京では、星はほとんど見えない。
「やっぱりこっちはあんまり見えへんな。北海道におった頃は、ぎょうさん見えたんやけど」
 空を見上げたのに気づいた冴島さんが言った。
「北海道の空、きれいでしょうねぇ。見てみたいな」
「あれは一見の価値あるで。いつか見れたらええな」
「そうですねぇ、いつか」
「星はあんまり見えんけど、月はきれいなもんやな。こんな街中でも」
 薄墨を零したような夜空の中、目を凝らしても星は見えなかったが、月だけはやさしく光っていた。どんなに街のネオンがあかるくても、どこにいても照らしてくれるひかりは、冴島さんに似ているかもしれない。いつでも輝いているから、道に迷ったとしても、そこに向かっていけばいい。どんなにさびしいひとでも見つけられる、強くて暖かいひかり。
「…なんか、冴島さんみたい」
 酔っていなければ多分溢れなかったであろう言葉が、するっと口から出てしまった。自分でもびっくりして、慌てて冴島さんの方を見ると、怪訝な、でも少し可笑しそうな顔をした冴島さんが「どういう意味や?」と言った。
「…えぇっと、」
「…良い意味やったらええんやけどな」
 それは、それはもう、もちろん。としどろもどろに答えると、ほうか。とだけ返ってくる。深入りされないことに少しほっとするも、冴島さんが歩みを止めたのでまたどきりとした。恐る恐る冴島さんの方を見ると、いつもの強い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「今度、教えてくれるか」
「え?」
「来週、久しぶりに1日休みあるんや。…今度はもっとええ店、連れてったる」
「……」
 冴島さんが深入りしないと思ったのは間違いみたいだった。なんの思惑もないと思っていたのも、もしかしたら間違いだったのかもしれない。願いを込めて、はい、と返事をした。その返事をしっかり聞いたあとで、ようやく満足したように少し優しくなった顔の冴島さんがかすかに頷く。
 夜がとっぷり暮れていてよかった、と心から思った。歩いている駅前の道はネオンライトで明るいけれど、耳が赤くなっていることまではわからないだろう。歩き慣れた道が、いつもとは少し違って見える気がする。やわらかいあたたかさを孕んだ風が、小さな笑い声みたいにまた少し髪を揺らした。ずっとこの帰り道が続けばいいのに、と心の片隅で思いながら、かみしめるように目を閉じた。