すでにドアの合間から吹きこむ風はひやりと冷たくなっている。今年ももう残すところわずかとなり、漂う空気が少しずつ変わってきているのを感じていた。それは例えば店の近くの川沿いに咲く金木犀のなつかしいような香りや、ずいぶんと早くなった夕暮れや、ウィスキーのお湯割りの香りを嗅いだときなどからも、強く感じられる。
血気盛んだったころはこんな小さな周りの変化に気付く暇もなかったな、とふと思い返すと、なんだかとても遠くまで来てしまったような気持ちになった。そう思うこと自体が、秋が深まって来ているという証拠なのだろう。そういう寂しいような気持ちも、この場末の空気にはよく馴染んだ。
今日はいつもだらだらと長居する足立が珍しく早めの時刻に店を後にしたため、店内はがらんとしている。今日はスタッフのいろはも休みだったので、余計に静けさが際立った。
レコードの整理でもするか、とレコード棚に向かおうとしたとき、チリンチリン、とベルが鳴ってドアが開き、その向こうに懐かしい顔がひょこりと中を伺うように覗いているのを見とめた。
「……Name」
ぽろりと零したように彼女の名前を呟くと、彼女はへへ、と笑って店内にするりと滑り込み、久しぶり、と言ってカウンターの席に腰を下ろした。
「あぁ。久しぶりじゃねぇか」
「今日は悪霊が復活する日だから。だから会えるうちに柏木さんに会いに来なくちゃと思って」
「……悪霊扱いするんじゃねぇ。俺はちゃんと人間として生きてるぞ」
「一回死んでたくせに」
あの事件で死を装い、長い間連絡をしなかったことを彼女は随分と長い間根に持っているようで、いまだにこうやって揶揄されることがある。恨んでいるのかと思えば、気まぐれにふらっと顔を見せて甘えたようなことを言ってくることもあるし、大分歳も離れているくせに、なんだかんだで切っても切れないような関係なのだった。
「あ、ハロウィンの飾り。こういうの、興味ないと思ってましたけど」
カウンターに置かれているジャック・オ・ランタンの飾りを目ざとく見つけ、Nameがそう言った。
「俺じゃねぇ。店の子が勝手に置いてったんだ」
「……お店の子。ふぅん」
Nameはなんとなく不満げに目を細める。
季節のイベントに無関心な店主とは違い、スタッフのいろははやれハロウィンだ、やれクリスマスだとこまごまとした飾りをカウンターや窓際などに置いたりしていた。過度なものではなく、客の目に自然と留まり、主張も激しくないものを選ぶところが彼女の手腕と言える。持つべきものは細やかな気遣いができ、やる気のある働き手である。
「ビールでいいのか?」
Nameが一向に注文をする気配がないので促すようにそう聞くと、
「作るのが一番面倒くさいカクテルください」
と彼女は言ってのけた。
「はぁ?」
思わず顔をしかめると、折角来たんだからおもてなしして、とむくれたように返す。
なんだそりゃあ、と思いつつも、そのむくれ顔は昔もよく見たな、と思う気持ちが勝って、なんだか懐かしかった。彼女にも変わったところはあるのだろうが、俺の知っている彼女もずっとそのままそこに残っているのが有難くさえ思える。
ふ、と笑いを零すと、彼女は先ほどとは打って変わって不思議そうな顔をした。
「わかったよ。……じゃあ、ハロウィンにちなんでブラッディ・メアリーでも作るか」
「あ……あの赤いやつ」
「血まみれメアリー。そんな物騒な名も、ピッタリだろ」
それはハロウィンに、それともわたしに?とまたむくれ顔で聞いてくる彼女をさあな、と言ってあしらい、冷蔵庫からトマトジュースを取り出して、グラスをその隣に持ってくる。ウォッカの栓を開けるその前に、やっておくことが一つあった。
バーカウンターから抜け出して入口のドアを開け、『OPEN』と書かれた表札を裏返し、ドアを閉め施錠する。玄関周りの電気も消していった。その一連の動作を見ていたNameが、
「あれ、もう閉めるの?」
と聞いた。
「あんたにおもてなししなけりゃならねぇんだから、他の客の相手なんざできねぇだろ」
Nameは目を丸くして一瞬黙り込み、それから、ふふ、といたずらそうな顔で笑った。これも、無遠慮に相手のふところに入り込み、いつの間にかそこにくつろげる居場所をしれっと作っている、良く知るNameの顔だ。
「じゃあ、今夜は柏木さんを独り占めできるってことだ」
あまりにも嬉しそうな顔でそういうので、好きにしろ、とう自分の言葉は、すこぶるぶっきらぼうな響きに聞こえた。それでも、彼女にはきっとその意味は知られているのだろう。
「カクテルができたら、ねぇ、隣にすわって」
全く、どちらが悪霊なのだか。つかず離れずで目の前にふいに現れ、まるで誑かすみたいに笑いかけてくる彼女の方がよほど悪霊ではないか。
だが、これを言うとまたむくれ顔になるのはわかっている。それも悪くないが、言わずもがな、笑っているほうが良い。今日はこの言葉は口に出すまい、と心の中でこそりと決め、耳元が少し赤く色づく彼女の顔をそっと見つめた。