レイニー

 彼女はいわゆる雨女というやつだと思う。
 明日や明後日の予報のように、だいたい晴れるのかそうではないのかわかっているときならまだ良い。問題なのは、たとえばめったに予約が取れない人気店の予約ができた時や、二人ともが楽しみにしていた映画の新作の初日や、少し足を伸ばしてちょっとした旅行をしようというときなんかだ。そういうときには、ほぼ毎回と言って良いほど雨が降るのだった。それもお世辞にも小ぶりとはいえない、結構はげしめのやつが。


 その日は二人の真ん中バースデーを記念して、ちょっと良いレストランを予約して、二人ででかけていたときだった。俺たちは何かにつけてばかな記念日を作って祝うのが好きだった。
「ごめん、やっぱりまた雨だった」
 待ち合わせの駅の屋根のしたで、彼女は泣きそうな顔でそう言った。
Nameちゃんがあやまる必要ないでしょ」
 しょんぼりしているNameちゃんが可笑しくて、俺は笑って手を取った。さ、行こう、と言って持ってきた大きなジャンプ傘のボタンを押して傘を開く。ジャンプ傘は俺たちにとっては欠かすことのできない必需品だ。ジャンプ傘があれば、手をつないでいるときも簡単に傘をさすことができる。俺はこれを発明した人に感謝の気持ちを伝えたい。
 しばらく歩いて、目当てのレストランに着いた。担担麺でも焼き鳥でもスパイスカレーでもナシゴレンでもなんでも食べる俺たちだったが、今日みたいな上等なフレンチレストランにはあまり出向かない。味はもちろん言うことはないのだが、形式ばっているのが二人とも向いていないのだ。
 ただ、記念日とあれば別だった。ちゃんと二人ともそれなりにおしゃれして、特別を味わうためにいつもより気をくばった。それが催しごとみたいで楽しかった。しかし、今日のためにきれいに巻いてきたのであろうNameちゃんの髪は雨の湿気のせいで崩れかけ、カーディガンを羽織る肩には雨粒のあとが残っている。

 
 シャンパンがぱちぱちと泡立つ、繊細で細長いグラスをカチリと合わせ、それを一口流し込む。ぶとうの爽やかな香りと炭酸がはじけて味わい深い。
「雨女って、お祓いしたらなおるのかな?」
 Nameちゃんはまだお天道様への恨みを忘れられないらしい。先ほど口をつけたシャンパングラスを傾けたり戻したりしながら、グラスの中で浮き上がってくるあぶくを見つめる目の色は、外の景色と同じようにどんよりと暗かった。
「うーん、少なくとも俺の祖国じゃあ、そういうのは聞いたことないねぇ」
 やっぱり、とがっかりした様子でNameちゃんは答える。
「一生このまま、大事な日やとっておきの日に雨が降り続ける人生って、なんだか寂しい」
「そうかな?」
「そうだよ。髪を巻いてもほどけるし、素敵なデザインのレザーのブーツやスエードのパンプスを買ったってどうせ履けないし」
 そう思う気持ちはわからないでもない。特に女の子にとっては煩わしいことこの上ないのだろう。しかし、会うたびに雨というわけではないのだし、そこまで気を病んでいるのはかわいそうだ。雨の日も、悪いことばかりではない。
「髪ほどけてても、エナメルのレインシューズでもかわいいけどねぇ」
「そういう…ことじゃないんだってば」
 彼女はわかりやすく照れてすこし言いよどんだ。
「それにさ、俺雨の日は嫌いじゃないよ」
 どうして?と言って、Nameちゃんはまるで信じられないものを見るような目で俺を見る。
「なんとなく落ち着くし、夜に街を歩くとさ、ブレードランナーみたいじゃない」
「ブレードランナー? あの、映画の?」
 そう、と頷いてシャンパンをまた一口飲んだ。横浜のうつくしさと猥雑さが混ざりあったような風景は、あの映画の雰囲気によく似合うと、ずっと前から思っていた。酸性雨が降り続く、うつくしくてみにくい街。もちろん、あの世界を生きるレプリカントたちのように悲劇的ではないけれども。
「ネオンライトが光る夜景と雨粒って、すごくきれいじゃない」
「うーん、それは、まぁ」
 Nameちゃんはまだ腑に落ちない様子で眉根を寄せる。
「それに、雨の勢いが収まるまでもうすこし雨宿り、とか、濡れた靴が乾くまでカフェでくだらないおしゃべり、とか、一緒にいられる時間が長くなる気がするしさ」
「……趙くんって、すごくポジティブだね」
 ついにNameちゃんは感心したような表情を見せて少しほほえんだ。やっぱり、女の子は笑っているのが良い。
「最近できた仲間に毒されたのかなぁ」
「間違いないよ」
 二人してくすくす笑っていると、タイミングよく二人分のオードブルを持ったウェイターがするりと現れ、音もなく皿をテーブルに置いた。きらびやかな料理を目の前にした二人——雨に濡れ、しかも空腹だ——には、オードブルの説明はまるでなにかの呪文にしか聞こえない。ナントカ産ナントカ仕立てのナントカ、ナントカ風のナントカを添えて。お楽しみください、と言い完璧な角度の礼をして、ウェイターはテーブルを離れていった。
「改めて、楽しみましょうか」
「そうしましょ」
 Nameちゃんの目はもう明るくなっている。またひとつ、特別な雨の夜のはじまりだ。