東京は夜の7時

 その汚くうす暗い釣り堀はミレニアムタワーの裏にあった。そこで東や海藤がよく暇潰しをするのを知っていたから、Nameは見当をつけてその少しなまぐさく安っぽい階段をヒールを鳴らして降りていった。
 下のフロアを見ると、Nameが思った通り、釣り堀のそばでひとりの男が退屈そうな顔で釣り糸を垂らして座っていた。ヒールの音が階段に響いたせいでその男はこちらを振り返り、驚いた表情を見せる。
「お前、なんでここに」
「シャルルにいなかったから、ここかなと思って」
 Nameが階段を降り切ると同時に東はおもむろに動揺した様子で椅子から立ち上がった。彼は一見怖そうな姿をしているものの、ポーカーフェイスは苦手なのだ。それだから、この暗い場所でもいつものサングラスを欠かさない。
「久しぶりだね」
「……何しに来た?」
「ヤクザやめたんだって?」
 Nameは東の質問には答えずにそう言った。Nameはとりたてて裏社会のあれこれに詳しいというわけではない。にも関わらず、どこからかそのことを聞きつけ、口に出すのは意外だと東は思った。東城会が無くなろうが己が極道ではなくなろうが、Nameにとっては全く興味のないものだろうと東は思っていた。
「……やめたっつーか、組が解散して無くなったんだよ」
「まさかそんなことになるとはねぇ」
 それでこんな生臭いとこで暇つぶしてばかりいるの?と呆れたように少し笑ってNameは続ける。言い方は癪だが、彼女の言う通りだった。他の元極道たちと比べて食い扶持があるだけマシとは言え、所詮しがないゲームセンターの管理人である。子どもらが遊びに来るのはかわいいが、いつかは下のものに店を任せてどうにかしてしまいたかった。だがその後自分が何をして生きていくのかは、まるでなにも思い浮かばないままだ。
「ま、パチンコとかギャンブルやるよりはマシか」
 Nameの言う通り、東は見かけによらずパチンコやギャンブルにはあまり明るい方ではない。たまに兄貴分たちとの付き合いでやることがあるくらいで、一向に賭け事全般に楽しさを見出せない哀しくも真面目なたちであった。


 Nameは丸椅子を引っ張ってきて東が座っていた椅子の隣に無造作に置き、その上に腰かけた。私にかまわず釣ってていいよ、と言うのでとりあえず東も彼女に倣い椅子に腰をかけたが、とうの昔に釣りを続ける気分では無くなっている。
「しかしヤクザじゃなくなったとなると、これからはもっと自由に生きられるんじゃない」
「…どっちにしろ、辞めてもあと5年は極道と同じ扱いだからな。どうせ今まで通りロクでもねぇよ」
 極道組織を離れたとしても、その後5年間は相変わらず銀行口座だのクレジットカードだの、ライフラインは不自由なままだ。当然憤りは感じるが、辞めた後もこういう足枷が残るのは、自分たちの組織が世間様にしてきたことの当然の報いなのかもしれないと思うと諦めもつく。そういう部分も含め、自分は納得して兄貴に付いて行った筈だ。
「ふぅん」
 Nameはじっと釣り堀を見つめている。自分から聞いてきたくせに、東の回答にそれほど興味もないようだった。相変わらずいまいち何を考えているのかわからない、読めない奴だと東は思う。
「ヤガミさんのところで面倒見てもらえば?」
「馬鹿言え。そんなのこっちから願い下げだ」
 Nameはふふ、と初めて笑い声をあげ、東の方を見た。相変わらず仲悪いんだ、おかしいと言ってまた笑った。
「これから仕事戻る?」
「いや、今日はもうアガリだ」
「そ。…どっかご飯でも行かない?組解散記念打ち上げってことで」
「んだそりゃ。バカにしてんのか?」
 そう言って凄むと、怒らないでよーとNameは気の抜けた声で言う。その気の抜けた様子を見ると、不思議と怒りも削がれてしまう。まるでふやけたパンのような女だ。こういうのを豆腐にかすがいと言うのだったか。
「……まぁ、メシくらい行ってやらねぇこともねぇが」
「よかった。腹ペコで死にそうなの」
 そう言ってNameは椅子から立ち上がり、先程降りてきた階段に向かって早々と歩き出した。東もそれを追うように腰を上げる。
「だがお前、なんだっていつもこんないきなり…」
「たまにさ」
「あ?」
「東くんの困った顔が見たくなるんだよ」
「………」
 東がNameと知り合ってからというもの、彼女はいつも突然東の前に現れ、彼女の都合で東を振り回していく。何度か色気のあることもあったが、所詮行きずりというやつで、ずっと捕まえられそうで捕まえられない女だった。
「たまには神室町出て、違うところに行こ」
 足早に階段を上がりながらNameが振り返って言った。その晴れやかな顔は、まるで自由の象徴みたいに見える。
 これからはもっと自由に生きられるんじゃない。
 さっきNameがそう言っていたのを思い出した。兄貴のように男らしく自由に生きたいと、そう思って松金組の扉をたたいた。しかし思い返せば、自分は様々なしがらみに縛られて生かされていただけだった。
 自分にできるのだろうか。みずからの意思で、自由に生きるなんてことが。目の前を歩く女が見ている世界が、自分にも見えるのだろうか。


 地上へ出ると、すでに日は暮れネオンライトがうるさくそこらじゅうで光っていた。タクシーを見つけようとあたりを見回すNameの横顔は、ネオンの逆光になって良く見えないが、なんとなくいつもより機嫌が良さそうに見える。
 今夜もおそらく、彼女の気まぐれに連れられたまま、一晩中アルコールで脳みそをふやかしたり、くだらない話に相槌を打ったり、あるいは同じ部屋で眠ったりすることになるのだろう。まるでふたごのようにくっついて。そうなれば良いと、まるで願うように、東は心の底から思った。