滝川さんから電話がかかってきたのは、9月の終わりの土曜日の午前中だった。
前日、締め切り上がりの担当の作家さんと打ち上げと称した飲み会を夜遅くまでしていたため、まだ体のなかにはアルコールが充満しているのを感じながら体を起こす。
この業界に入ってしばらく経つため、休みの日にも携帯が鳴ることに慣れてしまった。仕事用のスマホは、プライベート用のものよりも使っているかもしれない、と名前は思う。
ディスプレイを見ると見慣れた「滝川さん」の文字が浮かんでいる。
「もしもし、お疲れ様です」
「あ、もしもし、起きてた?」
「なんとか・・」
「前日も打ち上げだったんだろ、お疲れ」
「昨日もしこたま飲まされましたよ」
はは、だろうな、と電話越しに滝川さんは笑った。
滝川さんは私がこの出版社に入社してからずっと面倒を見てくれている先輩で、一人立ちして仕事をこなすようになってからも一緒のプロジェクトで動いたり、気にかけてもらっているとても信頼できる人だ。
休みの日にも連絡が来ることはめずらしくはなかったが、大抵は仕事の連絡なので何かありました?と促すと、滝川さんはあー、と珍しく言い澱むような言葉を発した。
「実はさ。急なんだけど、オレ休職することになって」
「え!え、どういうことですか」
「うん。ちょっとさ」
「・・もしかして、奥さん、具合だいぶ悪いんですか?」
滝川さんと滝川さんの奥さんのあいだには昨年末にお子さんが産まれていたのだが、産後、奥さんの具合が芳しくないという話を滝川さんから聞かされていたのを思い出した。奥さんの調子が悪くなって以来、滝川さんは残業をできる限りセーブして早めに帰宅し、甲斐甲斐しく奥さんとお子さんのサポートをしていたのだから、この数ヶ月は彼にとっても優しいものではなかっただろう。
「実家に少し返してた時期もあったんだけど、実家にいればいるで何かと気疲れもするみたいでさ。今の家で養生したいっていうから、オレも本腰入れて世話手伝おうと思って。会社のみんなには悪いんだけどさ」
「そうなんですね・・。でも、そのほうが奥さんにもいいと思いますよ、きっと滝川さんにずっとそばにいてもらえるほうが安心すると思いますし」
奥さんの体調に関しては深く聞くことはなかったが、その決断は悪くないと思った。頼れる旦那さんなんだろう、と少し滝川さんの奥さんを羨ましくさえ思う。
「それで、どれくらいお休みもらえたんですか?」
「部長が頑張ってくれてさ。なんと、半年」
「え!結構頑張ってくれたんですね!」
「そうなんだよ。ありがたいよな。やるときはやるな、あのおっさんも」
「よかったですね・・で、いつからお休みなんですか?」
「それがさっきも言ったけど、急で、来月からなんだ。で、ここからが本題なんだけど」
「仕事の引き継ぎですね?」
「さすが苗字ちゃん。話が早い」
せっかく滝川さんが奥さんとお子さんのために休みをもらったのだから、休みに専念できるように私たちもしっかりカバーしないとですね!と言うと苗字ちゃんいつのまにかオレより志高くなってるな、と滝川さんが感動していた。
「結構持ってる仕事あったから、いろんな人に仕事振り分けさせてもらったんだが、苗字ちゃんには一番大事な仕事を引き継いでもらおうと思ってさ」
「そういう風にプレッシャーかけるのやめてくださいよ・・」
さっきまでやる気満々だったのに、と滝川さんが笑う。
「いや、やりますけど」
「有栖川先生の担当。苗字ちゃんにお願いしたいと思って」
「有栖川先生?って、あの変わった詩人の方ですか?」
「そうそう」
有栖川誉という詩人のことはもちろん知っていた。
滝川さんは私が知る限りずっと有栖川さんの担当をしていて、私達の間ではよく話題になった。私は写真でしか彼を見たことがないけれど、美形ではあるが、滝川さんの話や彼の作品から察するに「風変わりな人」なのだろうと私の中では落ち着いていた。作家なんて普通の人を探す方が難しいくらいだが、彼はなんというか違う世界の人、というレベルで変わっていそうだ。あの人と仕事をしている自分、というのが、くらい想像ができなかった。
「・・・私に務まりますかね・・?」
「はは。言うと思ったけど、絶対苗字ちゃんがいいと思ったんだ」
「それはどういう根拠で・・?」
「うーん、先輩の勘、だな」
「滝川さんの勘っていつもあてにならないですけど・・」
「ひどいな」
滝川さんはひとしきり笑ってから、とにかく、引き継ぎの資料は月曜に渡すから、また詳しく話すよと言った。もうここまで体制が整っていたら、どうにもならない。不安しかないが、やれるだけやるしかないだろう。
「苗字ちゃんありがとね、また何かでお礼するよ」
「美味しいご飯とお酒とスイーツの差し入れ待ってます」
「それ、オレも欲しいわ」
じゃ、また、と言って電話は切れた。
波乱と苦労と、遥か想像も及ばないこと、色々の幕開けだった。