Race With The Devil

 薄暗いカウンターに並べられたウィスキーボトルのラベルのはしっこをぼうっと眺め、しばらく適当に相槌を打っていたけれど、途端にどうしようもなくばかばかしい気持ちになって、『ちょっと電話に出てくる』と言って嘘をつき、そのまま黙って店を出た。
 隣に座っていた男——いつかのお酒の席で隣に座ったことがきっかけで二言三言交わし、連絡先を交換しただけの人——は、あらためて食事を共にして腰を据えて話してみるとわかったことだが、自分の話をするのは得意でも、他人の気持ちを推しはかることにかけてはとても鈍いようなので、わたしが彼を残し一人店を出て帰ってしまったことに気付くのは、おそらくそう早くないタイミングだろう。もしかしたら呑気に次のお酒も注文してしまっているかもしれないと思うと、少し滑稽で笑いそうになる。


 地上への階段を登り切ると、外は雨だった。一瞬、バーを後にしたことを後悔しそうになった。今朝の天気予報ではたしか曇りの予報だったはずなのに。テレビで毎朝見るかわいらしいお天気お姉さんを思い浮かべ、うそつき、と、心の中で悪態をついた。
 楽しくない食事、いつかあの人と来たことのあるバー、予報外れの雨。気分は最悪だった。


 雨を避けるようにして小走りでコンビニの前まで行き、軒下に体を寄せ空を見上げた。雨はまだ止みそうにない。時間はまだそう遅くなく、金曜の夜の繁華街は陽気な雰囲気に包まれていて、道行くスーツ姿の集団や恋人らしき男女や若い学生たちは、雨が降っているにも関わらずがやがやと楽しそうに見えた。それが余計に、自分のなかのどうしようもない気持ちを浮き彫りにさせた。そのうえ、あの男があのバーを二軒目に選んだせいで、どうしてもとある男のことが頭から離れないのだった。
 はぁ、と一つ溜息をついて、スマホを取り出す。彼の名前は電話帳の上のほうにあるのですぐに見つけられる。その名前をじっと見つめ、諦めたような気持ちで発信のボタンを押した。連絡を取るのは久しぶりだったので出てくれるのかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
「……もしもし」
 数回コール音が鳴ったあと、ぶっきらぼうにその男は言った。
「あ。……えっと、仕事終わった?」
「……お前なぁ」
 もしもしとか、久しぶりとか、なんかねぇのかよと呆れたような声が聞こえてくる。それもそうだと思い、久しぶり、と取ってつけたように言うと、今度ははぁ、と返事の代わりにため息が返ってきた。
「今ちょうど事務所から出るとこだ」
「そう。……今からここに来てほしいんだけど、迎えに」
「はぁ? 迎えにって……どこに?」
 サカエの、昔何度か行ったバーの近くにいる、と告げると、獄は押し黙った。それから、お前の使い走りはごめんだ、と言った。
「雨のなか一人で帰れって?」
「どうせ酔っ払ってんだろうが。傘買って一人で帰れ」
「酔えなかった。だから電話してる」
 そう言うと、何かを察したのか、獄はまた黙った。ねぇ、と催促すると、車のドアロックを解除する音と、車に乗り込むようながさりという音が聞こえる。
「今日だけだぞ。次はねぇからな」
 諦めたような声色なのは、わたしが絶対折れないとわかっているからだろう。そういうところが獄の甘いところで、それと同時に、わたしたちをつなぎとめているなにかだ。十分くらいで着く、と言って電話は切れた。


 コンビニ横にするりと停車した車の助手席のドアを開けると、ギターが小気味よくリズムを刻む音楽が流れていた。いつものことだが、もっと静かで落ち着いた音楽を流せばいいのにと思う。わたしは彼が好む音楽もお酒も好きではない。わたしの知らない世界でばかり遊ぶ彼は、横に並ぶことはできなくて、背中しか見られない。
 ただ時折少し近づいて、それ以上踏み込むことなく、また離れていく。そんなことを長い間続けている、浮ついた関係になるタイミングを逃したただの男と女というだけだ。そんな厄介な相手がいるだけで、一日が悪くなったり良くなったりもする。わたしたちはきっとどちらも、同じくらいずるい。
 雨はもう、止んでいた。