There is

 デスクの一番大きい引き出しを開けると、奥のほうに何かが挟まっていた。あれ、空にしたと思ったのに。そう思って手を入れて引っ張りだしてみると、それはいつかの納涼祭でみんなで撮った写真だった。真島社長を真ん中にして集まり、カメラのフラッシュで照らされた汗ばむ皆の顔がてかてかとしている。
「おぉ、それ懐かしいやんけ」
「真島社長」
 振り返るといつものようにドカヘルをかぶった真島社長が後ろから覗いていた。手に持っていた写真がひょいと持っていかれる。
「納涼祭のときのか。こいつら汗だくでひどい顔しとるのお」
 写真をまじまじと見ながら真島社長が言った。たしかに、このプレハブオフィスの屋上で行われた納涼祭の時、夜だったとはいえ暑くてたまらず、社員の皆さんが作ってくれた焼きそばや焼きとうもろこしをつまみに、皆でだらだらと汗をかきながらビールをばかみたいにがぶ飲みした記憶がある。南さんのカラオケ大会が絶好調だったのは言うまでもない。
 引き出しの奥に挟まってました、と言うと真島社長は「もっと大事にしとかんかい!」とわたしの額に写真をペシリと叩きつけた。
「もうだいぶ片付け終わったんか」
「あらかた終わって、いま最後の確認してるところです」
「さすが、仕事が早いのうー」
「社長は終わったんですか?片付け」
 そう聞くと、んなもん下のもんに適当にやらせるわーと言ってつまらなさそうにひらひらと手を振った。他の社員さんたちは一階更衣室の片付けやらもしつつ、現場の仕事もあるのでまだ忙しそうにしていたが、興味のないことにはとことん興味を示さず誰かにやらせるのが彼のいつものやり方だったので、そりゃそうか、と思った。


 この真島建設という会社に就職したのはおよそ一年前のことだ。地元の小さな会社で経理として働いていたとき、付き合っていた恋人と別れた。それをきっかけに、ただなんとなく、上京しようと思った。その矢先、東京で暮らしている西田の従兄から連絡があり、上京しようと思う、と告げると、一年間限定でうちの会社で働かんか、と食い気味に誘われた。従兄は極道者のろくでなしだからあんまり関わるな、と親から言われていたけれど、彼とは昔から馬が合い、親には内緒でたまに連絡を取り合っていたのだった。
「会社?って…ヤクザやってるんと違うかったっけ?」
「親父が組から足洗う言うて、もうすぐ会社始めるんや。建設会社やと」
 建設会社といえばたしかにヤクザの企業舎弟が多い印象だったが、あくまでも組から抜ける形で会社を設立するのだと言う。詳しいことは聞かなかったけれど、いろんな事情があるのだなぁと他人事ながら思った。
「ふーん。…なんで一年限定?」
 そう聞くと、たぶん続いても一年そこらや、と従兄は言った。
「親父は飽きっぽいねん。でかい案件があるからそれを会社としてやるみたいなんやが、経営の土台と建設関係のコネやら作ったら、おそらくあの人は極道に戻るはずや。カタギの会社で骨うずめるような人とちゃう」
「ふーん」
 別にやりたいとは思わなかったが、やりたくないとも思わなかった。つまるところ、なんでもよかったのだ。今から思えば、一年間限定とはいえ、元極道ばかりの会社で働くことを選ぶなんて少し自暴自棄になっていたのかもしれない。しかし、見知らぬ土地で一から仕事を探すことを思えば、よく知る従兄がいることもあり、あの時の自分にとっては渡りに船だった。その一年の間に腰を据えて次の職探しができる、と思った。
 真島建設はまさしく従兄の言う通りになった。起業から一年、一握りの舎弟を残し、自身と他の舎弟は極道に戻って、残った舎弟をメインメンバーとし会社を運営させるのだそうだ。そうすれば表向きは極道組織との関係はないものの、しかし舎弟がいるのだから、真島さんの大きな持ち駒のひとつになるというわけだ。
 そしてまさしく今日がその「一年後」の日である。私も従兄も、そして真島社長はじめ他の社員、もとい舎弟の人たちも、この会社を去ろうとしていた。明日からこのオフィスには、違う顔ぶれの人たちが来ることになる。


 手の中の写真に視線を戻した。引き出しに挟まれていたせいで、少しよれてしまっている。
「そういえば社長、このときもですけど、いっつもイベントのときにビール瓶をケースで何十個も仕入れててびっくりしました」
「そりゃお前、祭りは全力で楽しむもんやろが」
 ヤクザが祭り好きというのは昔も今も変わらないようで、歓迎会から始まり、春の花見、夏の納涼祭、秋のハロウィン、冬の忘年会や新年会、昨晩行われたお疲れ様会など、会社の福利厚生イベントと称して全力で企画と準備をし楽しんでいた。そのたびに真島社長は、豪勢な出前寿司や仕出し弁当、高級焼肉やふぐを食べさせてくれたりなど、普段の破天荒な様子とは裏腹に太っ腹なのである。まさに、アメとムチという言葉を体現したような人だった。
「忘年会で食べた焼肉、おいしかったなぁ」
Familyちゃん、あんときもベロベロに酔っぱらっとったやんけ。味覚えとるんか?」
 ヒヒ、と真島社長が笑った。この、人を小ばかにしたような笑い方。最初こそムッとしたものの、今ではこの人のチャームポイントの一つなのだと思うようになった。ここで仕事を始めて一年が経ち、西田の従兄が真島社長について行きたくなった気持ちがなんとなくわかる。いつも型破りでめちゃくちゃに振り回されるのに、それでもなにか、人を惹きつける不思議な魅力があるのだ。あのアメとムチのせいかもしれないが、それ以外に他にもっと、得体の知れないなにかがあった。そのなにかの正体は多分、知ることのないままここを去る方が良いのだろう。


「もう掃除も終わったんなら、帰ってもええで」
「…ほかになにか手伝うことないですか?」
 そう聞くと、あとは他のもんにやらせるから大丈夫や、と真島社長は言った。
「…そうですか。じゃあ……一階と現場の皆さんに挨拶して、帰ろうかな」
 思いがけず、その言葉が心細く聞こえ、気まずい気持ちになった。デスクの右下の引き出しに入れていた鞄をゆっくりと取り出し、その中に入っていたファイルに先ほどの写真をそっとすべりこませる。
 ここに来てから、楽しいことは、結構たくさんあった。たった一人の女子社員かつ従兄の身内だったおかげか、真島社長も比較的やさしく接してくれたように感じる。他の社員さんももちろん礼儀正しく、怖い思いは一度もしなかった。意外とこの一年は悪いものじゃなかったな、と思う。美味しいものもたくさん食べられたし。
「ほな、明日から達者でな。新しい会社でもがんばりや」
「真島社長も。体、気を付けてくださいね」
「アホ。心配せんでも、百まで生きるわ」
「短い間ですが、本当にお世話になりました」
 頭を下げると、真島社長がこちらこそおおきにな、と心なしかやわらかな声で言った。
 真島社長とはもう、B級ゾンビ映画を観たあと感想を言い合うこともないし、おすすめのサウナ情報を共有することもないし、プロレスの余りチケットをもらうこともない。それはほんの少しだけ、寂しいことのような気もした。
 人生で、関わり合うはずのない人たちと過ごした。きっとこれからは、交わることはない。それでも、ビニールシートに座って桜を見るとき、夏祭りの焼きそばの屋台を見るとき、ばかみたいなゾンビ映画を観るとき、お年玉のぽち袋を見るとき。そんなときにはふと、真島社長をはじめ彼らのことを思い出すのだろうということは、はっきりとわかる。
 下げていた頭を上げ、鞄を手にしドアまで歩く。振り返ると、社長椅子に戻って座り、いつものように足を机に預けてふんぞり返っている真島社長が、ひらひらと手を振っているのが見えた。もう一度頭を下げて、安っぽいアルミサッシのノブを回してドアを開けると、暮れかけのひんやりとした空気が頬に触れた。やはりさよならは、いつまで経っても慣れない。もう一度、振り返ってみたい気持ちになった。