Summer touches you

※0の少し前、桐生と錦が組に入ってしばらくした頃のお話です。



 一仕事終えた後の一服を体が欲していた。煙草はたしかジャケットの内ポケットに入れていたはずで、ジャケットはどこに置いたのだったかと思い返し、しばらくして一階にあるがらんとした食堂の椅子の背に無造作に放り出されているのを見つけた。
「ここか」
 ひとりごちてジャケットの内ポケットを探ると、お目当てのものが指先に触れた。そのままジャケットごと肩にかけ、誰もいない食堂を後にする。子供達の嬉々とした声に溢れていることが多い食堂も、平日の今の時間は静かなものだった。

 ここ養護施設ヒマワリは風間の親父が創設した施設だったが、「俺に何かあったらお前があそこを継ぐんだ、今のうちから慣れとけ」と、親父に駆り出されることが多い。刀傷がのさばるこの顔では子供達を怖がらせるだけだろう、と最初は施設に入ることも気が引けたが、電話で話すだけではダメだ実際に足を運べと口酸っぱく言われたのが功を奏し、寮母や子供達もすっかり慣れてくれたらしい。
 裏口を開け裏庭に出ると建物の近くに古く錆びたベンチがある。灰皿はもちろんないが、無造作に置かれているコンクリートブロックを灰皿代わりにしていた。

「ったく、親父も人使いが荒いぜ」
 元鳶職の奴らが組に何人かいたおかげで今日は助かったが、慣れないことをするとほとほと疲れる。タバコに火を付けふぅと煙を吐き出すと、すぐ側で裏口が開く音がした。
「柏木さん」
 音の方に振り向くと、まだ制服姿のNameの姿があった。少し肩で息をして、前髪は風にあそばれたようになり、むきたての卵みたいな額がちらちらと見えている。
「おぅ、Name。帰ってたのか」
「うん。今、帰ったとこ」
 そう言ってNameは俺の前を通り過ぎ、同じベンチの少し離れたところに腰掛けた。
「雨漏り、直してくれてありがとう」
「うちの若いモンでそういうの得意な奴がいてな。助かったぜ」
 奴ら今は寮母さんの買い出しに付き合ってるよ、と続けると、Nameはあとでお礼言わなくちゃ、と言って少し前髪を整えた。桐生と錦山がヒマワリを去ってから若い男手が減り、買い出しや力仕事などに苦労しているのだ。そのせいで、俺たちが呼び出される機会が以前より少しばかり増えている。

 そういえば、時計の針はまだ正午を少し過ぎたくらいだったはずだ。高校生の帰宅時間にしては変だと不思議に思い、今日はやけに早いんだなと聞くと、今は中間テスト期間なのだと言う。
「あぁ…なんか懐かしい響きだな」
「ずいぶん前のことだもんね」
「ジジイ扱いする気か?まだ早えよ」
 くすくすと小さく立てたNameの笑い声は、風に吹かれてそよぐ緑の葉のさらさらという音に、まるできれいな音楽のように重なった。5月の木漏れ日は夏の日のそれよりも幾分か優しく、揺れる影が何かの模様のように見える。
 裏庭には簡単な花壇のようなものがあって、Nameがよく世話をしていた。ヒマワリという施設なのにヒマワリが咲かないのはおかしい、と彼女が意義を唱え数年前に植えたヒマワリの種は、今では蝉の声が聞こえる頃になると小ぶりではあるが立派に花を咲かせるようになった。
「一馬くんと彰くんは元気?」
「ん?…あぁ、桐生と錦山な。今は正式に組員になったばっかでいろいろと雑用で忙しいみてぇだが、たまに顔は出してくれるぜ」
 そうかぁ、とおぼつかない返事をして、Nameはそのまましばらく口をつぐんだ。普段は比較的活発な印象があったので気にかかり、彼女の方に改めて目をやると、少し頬のあたりがすっきりして大人びたように見える。
 ふと、わずかに会わないでいた期間に、この少女も確実に俺たちの世界へと近づいているのだと気づいた。もう高校も今年卒業のようだし、桐生や錦山が組に入るくらい大きくなったのだから、当たり前と言えば当たり前ではあるのだが。

 ぼんやりとして一向に口を開く気配がないので、なんか悩みでもあんのか、と聞いてやると、えっ、とこちらを振り向いた。
「うーん…」
 Nameはまさに図星といった感じでどう切り出すか悩むようにしてまだ葉だけのヒマワリを見つめる。そして、散々考えぬいた様子の、Nameの口から出てきた言葉に拍子抜けした。
「男の人はいいな。やくざになれば家族ができるって」
「……なんだって?」
「一馬くんと彰くんがそう言ってた」
「あいつらか……」
 好んで極道の道に入るものは少なからずいる。だが勿論すべての者がそうというわけではない。這いまわってたどり着いた先がここだっただけ、という奴らも山ほどだ。
 その中であいつらの口からそんな言葉が出てきたことは、一見慰めとも思えるがしかし、哀しいことのような気もした。
「なんだ。あいつらが行っちまって、まだ寂しがってんのか?」
「そんなんじゃないけど……でも、わたしももうすぐ卒業だし。ここから出てって一人だけで暮らしていくのが、想像できなくて」
 Nameはわずかに揺らしたつま先を見つめた。タバコの煙が二人の間を少しさまよって消えていった。

 確かに桐生と錦山はある程度知った人間もいる世界に自ら望んで飛び込んだが、Nameはそうではない。親や頼れる大人が居ないながらも、ヒマワリという居場所に護られてきた子どもが大人の世界に身一つで飛び込んでいくのは、きっと得体の知れない恐ろしいことなのだろう。
 自由の代償はいつだって大きい。それは、俺にもNameにも言えることだ。
 それでも今はなんとなく、この年端のいかぬちっぽけな少女を守ってやらなければという気持ちが自然と沸き起こった。日陰者の自分にできることなど、大してないのかもしれないけれども。

「……おめぇはまだガキなんだ。甘えたらいい」
「…誰に?」
 その甘える相手がいないのだから困っているのだという顔をして、Nameはこちらを見上げた。生まれたそのまま、何も手を加えていない髪の毛の1本1本が、太陽の光に反射して眩しい。
「なんかあったら、連絡してこいよ」
「……やくざ事務所に電話するの?」
「ほら。この番号にかければ、直接俺に繋がる」
 名刺入れから1枚抜き取り、Nameの方に差し出した。Nameは目を丸くしてしばらくそれを見つめていたが、やがてそれを受け取った。手に取ってしみじみと眺めている様子が可笑しく、ふっと笑いが漏れる。さすがに女子高生にやくざ者の名刺は不釣り合いだ。
 とうじょうかいちょっけい、どうじまぐみない、かざまぐみ、わかがしら、……とわざわざ音読をしているのも、呪文か何かのように聞こえて滑稽だった。笑いをかみ殺しながらそばに転がっているコンクリートブロックにタバコを押しつけて火を消して体勢を元に戻すと、Nameはこちらを振り返り、やっと笑っている。
「ありがとう柏木さん。宝物にする」
「おう、しろしろ」

 目に見えて元気になったNameはとたんに軽い足取りといった様子でベンチから立ち上がり、例の花壇の方に近づいた。
「他の奴にはあんま見せんじゃねぇぞ」
「絶対見せない。だって宝物は、誰にも見せないものだもん」
 そう言いながら花壇の前でしゃがみこみ、そしてすぐに立ち上がった。振り向いてこちらに歩いてくるその手の中には、白い花が数本握られている。
 そしてそれが、ずいと目の前に差し出された。
「これ、野草じゃないよ。マーガレット。ちゃんと育てたやつだから、大事にしてね」
 呆気に取られてしばらく黙り込んでいると、細い手がさらにこちらに伸び、それらを俺のシャツの胸ポケットへとねじ込んだ。
 お礼だよ、と言ってはにかんだようにして少し笑い、Nameは潔く制服のスカートをひるがえしてそのまま駆けていった。
「…………」
 胸ポケットから1本取り出して眺めてみる。素朴だが、清楚で可愛らしい花だ。
 今までの人生で誰かに花なんかもらったのは初めてだった。花を飾るなんてとてもガラじゃないが、Nameのあの顔を思い出すと、言う通りにしないわけにはいかないだろうと思った。
 花を胸ポケットにそっと戻し、ジャケットを抱えてベンチから立ち上がる。優しい日差しの中、軽やかに駆けていくNameの後ろ姿が、目に焼き付いて離れなかった。夏を目の前にして成長して羽ばたいていく、ツバメに少し似ている。

 それはとても眩しく、かけがえのない一瞬だった。