because

※「日.本.で.一.番.悪.い.奴.ら」という映画の一場面のパロディです。
高齢者が薬物を使用している場面があります。人道的に良くない作品です。ヒロインも少ししか登場しません。
それでも問題ないという方のみ、自己責任でお読みください。




 そのあばら家を後にするたび、心底鬱々とした気分になった。信念のもととはいえ、これが人として許されるやり方なのかはもはや自分にはわからなくなっていた。それが正直な感想だった。
 路肩に止めた車に乗り込もうと、キーを取り出すため懐のポケットを探ると、前から見覚えのある女がこちらに向かって歩いてくるのを目の端で見とめた。
「……」
 思わず足を止めてしまったのがいけなかった。相手がこちらに気付くまで暫くもかからず、俺の姿を確認すると、彼女の歩みは目に見えて遅くなり、やがて止まった。厳しい目線だけは、こちらを逃さないようだ。
「……あなた、また」
「…こんにちは」
 軽く会釈をすると、彼女の眉間のしわが割れて尖った硝子のようにいっそう深くなる。
 いつもの癖で、そんなに怖い顔をなさらなくても、と意地の悪いセリフが出そうになったが、それを言葉として発する気はもちろん起こらなかった。車のキーがチャリ、と間抜けな音を出したのが、どこか遠いところから聞こえた気がした。

***

 ある日の昼下がり、プライベート用のスマホが鳴った。仕事用ではない電話にかけてくる人物といえば片手で足りているので、特に誰からの電話なのかは気にしなかったが、通話ボタンを押す前にスマホのスクリーンに「ウサちゃん」の文字が無機質に浮かんでいるのが見えた。いつか乱数が勝手に弄った設定を戻すのが面倒で、結局そのままにしてしまっている。
「よぉ」
「左馬刻。今大丈夫か?」
 いつも通りの少し神経質そうな声が聞こえた。それに加え苛立ちがわずかに孕んでいるのがその第一声からで分かった。つまるところ、奴の本業に関することでなにか話があるということだろう。
「…あぁ。なんだよ。何が聞きたい?」
「最近、また新しいタイプのクスリを便追組の奴らがさばいてる」
「…それは初耳だが、あいにくあっちのシマの中のことは俺たちゃ手出しできねぇよ」
「それはわかってる。だが、これから言う話はお前にとっても関係がある」
「勿体ぶってねぇで早く言えや」
 催促すると、一呼吸おいて銃兎は続けた。
「奴ら、最近販売経路を増やしてる。それが今度、イセザキの商店街近くでも販売を始めるっていう情報が入った」
「…イセザキっていや、ウチの若いモンに任せてる火貂組のシマじゃねぇか」
「あぁ。つまり、火貂組内部で内密に便追組に口利きしてる奴がいる」
「……そりゃ本当か?」
「あぁ。信頼できる筋からの情報だ」
 ”信頼できる筋”と、やけに鼻につく言葉を奴は使った。それがなぜだか、無性に苛立った。
「…筋って誰だよ。コッチにも信頼てモンがあんだ。確かな情報じゃなかったら承知しねぇぞ」
 そう凄むと、電話口からははぁ、とため息のようなものが聞こえる。
「……あるシャブ中から聞いた話だ。これ以上信頼できる出所があるか?」
「しょっぴいた奴か?そいつが出まかせ言ってんじゃねぇのか」
「違う。彼女は…なんというか、協力者でもあるんだ」


 協力者ではあるが、薬物中毒者。奴は様々な協力者を囲っているらしかったが、そういう事情の人物は今までに聞いたことがない。なぜなら、薬物中毒者と見れば片っ端からしょっぴいているからだ。
「…はぁ?そいつはしょっぴかねぇのかよ」
 そう聞くと、こっちにも色々と事情があるんだよ、とまるで毬でも叩くような煮え切らない声が聞こえた。いささか珍しいことだったのでなんとなく気が削がれ、次第に腹の中に感じた苛立ちが影を潜めていくのがわかった。
「…シャブのことを聞くには、シャブ中が一番でしょう?」
「………ま、そこまで言うなら深く聞かねぇでおくわ。…ウチのモンに探り入れるのは気が進まねぇが…」
「だが裏切りがあるとすれば困るのは火貂組の方だろう。…しっかり頼みましたよ」
 奴は元のペースを取り戻したようで、先程の声とは裏腹にいつもの調子で答える。ったく、と悪態をついて電話を切った。結局向こうのペースに乗せられた気がしてならないが、情報が正しいのであればこちらも面倒なことになる前に芽を摘んでおく必要がある。早速、若頭補佐の電話番号を呼び出すべくもう一つのスマホを取り出した。

***

 彼女と出会ってからそこを訪れる頻度は一週間か二週間に一度だった。しかし、食器の溜まったシンク、半開きのカーテン、無造作に置かれた注射器、退廃した空気、それらのものすべてが、今まで取り扱ったどの事件の風景よりも、いくら洗っても取れない染みのようにじわじわと心にこびりついた。
 そのあばら家にはインターホンはない。正しく言えば、インターホン自体はあるものの、ずいぶん前に壊れたらしく使い物にならない。いつものとおり、玄関の鍵は開いていた。ガララ、と引き戸を開けると、いつもの通りぼんやり卓袱台の前に座っている彼女の後ろ姿が見える。


「こんにちは。変わりはないですか」
 数ヶ月前、道端で倒れている高齢の女性を助けた。こともあろうか、彼女には薬物中毒の症状が見受けられた。まさか、と思い秘密裏に検査をすると、クロだった。はたから見るとただの弱った老女である。このような老女をダシにしている密売者がいる事実がまるで信じられないのと同時に、腹の底から憤りを感じ頭が痛くなった。
「あぁ…また来てくれたの」
 ゆっくり振り向いた老女は、焦点が定まらないような目をしてこちらを向く。いつも、どうしても正面から彼女の目を見ることができない。顔の少し下の方を見ながら、お土産です、と手にした寿司折と封筒を渡した。
「いつもありがとうねぇ」
「いえ、いいんですよ。いつも協力してくれているお礼です」
「悪いねぇ」
「調子はどうですか?」
「うん、元気だよ」
「あれから何か新しい情報はありましたか?」
「うぅん、なぁんにも聞いてない」
「そうですか、なら良いんです。…今日はお孫さんは?」
 長い間独りで暮らしていたという老女にはひとりの孫娘がおり、ここ最近ヨコハマに戻っていた。高校を卒業してから家を出て就職し、仕事のためしばらく別の地で暮らしていたのが、たまたま久しぶりに休暇を取ってこの家に帰って来たタイミングで、こともあろうか鉢合わせしたことがあった。
 自分の祖母の状態と俺の姿を見比べ、わけがわからないような顔をして、立ち尽くしてただ涙を流したあの孫娘の顔は、今でも容易く思い出せる。


Nameちゃんねぇ、もうすぐ来るはずだよ」
「…そうですか。それは楽しみですね」
 彼女が訪れるのなら、少しでも早くこの場を立ち去ったほうが得策だろう。そう思って腰を上げると、思いのほかそれに早く気づいた彼女が、もう行くの、と声をかけてくる。
「えぇ。慌ただしくてすみませんが、今日も仕事が立て込んでいて」
「大変ねぇ、体に気をつけてねぇ」
「それはこちらのセリフですよ。くれぐれも、言いつけは守ってくださいね」
「うん、守る、守る。じゃないと、Nameちゃんに会えなくなっちゃう」
「…それに、Nameさんが悲しみます」
「うん、うん」
 しきりに頷く彼女は、なぜか毎回少しだけ目を潤ませる。それを見るたびに、ひんやりとした手触りの得体の知れないなにかに首元を締められるような気分になった。

***

「……あなた、また」
「…こんにちは」

 
 例の老女の孫娘、Nameは、一定の距離を保ったまま、こちらには近づいてこない。言葉を発さなくても、彼女の考えていることは手にとるように分かった。しばらくお互い無言で立ち尽くしていたが、やがて彼女が重い口を開く。
「どうして何もしてくれないの?あなた、警官なんでしょ。…なにか、守ってくれる方法は…」
「それは彼女を薬物乱用の罪状で逮捕しろ、ということですか?」 
 図星を突かれ、つい冷たい口調で啖呵を切ってしまい後悔が過った。それは…と口籠る彼女は、そこで初めて俺から目を逸らす。
「……あの歳だ。今から逮捕したら、刑務所でも更生施設でも、出てくるまでに離脱症状に耐えられず死んじまうかもしれない。施設に入ればろくに面会もできませんし、貴女も、彼女以外に身内はいないんでしょう。本当にそれでも良いんですか?」
 随分と無様に聞こえたが、それは隠し通すことのできない本心そのものだった。元はと言えば、彼女を保護し検査をしたタイミングで逮捕が出来なかった、というより、逮捕をする気が起きなかった時点で、彼女と自分の命運は決まってしまったのかもしれない。
 表向きはシャブ中の情報提供者ということになるが、実際のところ、自分が冷徹になりきれなかったばかりに、一蓮托生となってしまった哀れな一人の人間なのだ。それは痛いくらいに自覚していた。


 彼女はしばらく俯いたまま黙り込んでいたが、意を決したようにこちらに向かってのろのろと歩みを進め、やがて数メートルの距離で止まった。
「不良警官さん」
「…入間です。いい加減、覚えてくれませんか?」
「おばあちゃんが薬のやりすぎで死んだら、死んでやる!」
「………」
 いきなりのことで一瞬呆気に取られた。
 だがそれよりも、彼女が「殺してやる」ではなく、「死んでやる」という言葉を使ったことに驚いた。それはなかなかどうして、的を得ていたからだ。
 なぜならば、自分はこんなにも、死者によって動かされている。


「…しっかりとコントロールしていますから、安心して良いですよ」
 逃げるようにして去っていく彼女の後ろ姿に無理矢理言葉を投げかけたのは、彼女が自身も知らないうちに俺の確信を突いたからだろうか。それとも、単に少しでも安心させてやりたかったのだろうか。俺自身、知る由もなかった。彼女は返事を返すことなく去っていったが、その後ろ姿は痛いくらいに余韻を残した。その姿を見送って、ようやく運転席のドアを開いて乗り込む。ドアを閉めると、どっと何かが押し寄せてくるのがわかり一気に疲労を感じた。
 俺だってやりたくねぇよ、こんな仕事。不恰好な本音がついに口からこぼれ落ちそうになったのを、車内で無機質に冷えていた泥水のような缶コーヒーがその言葉を何もなかったかのように押し込めていく。煙草に火をつける。無性に、あいつらの顔が見たくなった。