ねぇ、足立さんの話聞いた?と同僚が嬉々と話しかけて来た時には、噂は既に耳に届いていた。どうしてそんなに嬉しそうな顔で人の不幸な話を触れ回れるのか、わたしには同僚の考えていることがさっぱりとわからなかった。曖昧に返事をして席を立つと、ちょっと、と話し足りない様子の彼女が引き止めようとしたが、わたしが身をかわすほうが数段早く、彼女は不服そうにもう、とため息をつき背中を椅子の背もたれに預けた。
メインの事務所を出て喫煙所のある中庭へ向かうと、ベンチに座り一人でタバコを吸っている足立さんを見つけた。
「足立さん」
声をかけ近寄ると、足立さんはぼんやりとした動作でこちらを振り返り、あぁNameちゃんか、と呟いた。
「なんだ、もう噂聞いたのか?」
自嘲気味に足立さんが片眉を上げて笑う。やはり、あの嫌な噂は本当だったのだ。
「ほんとに、クビになっちゃったんですか?あともう少しで定年だったのに…」
「…あぁ。さっき言い渡された」
かなわんぜ全く、と煙を吐き出し足立さんが続ける。多分、怒りを通り越して諦めの境地なのだろう。わたしとしてはまだ諦めの境地とは程遠い心地だと言うのに。
足立さんとは、かれこれ長い付き合いになる。説明しておくと、付き合い、というのは、もちろん清廉潔白なただの同僚としてだ。
聞くところによると、彼は刑事課に所属していたが、何十年も前にややこしい事件に首を突っ込み、挙げ句の果てにこの場末の免許センターに左遷されて来たらしい。正確な年数は覚えていないが、わたしがここに来たころには随分とこの職場に馴染んでいたようだったので、足立さんがこの場にやってきたのはいたって遠い過去のことのようだった。刑事として仕事をこなしていれば、深入り無用という暗黙の了解のような事件が多々ある。現在の彼からはつゆほどの気配も感じられないのだが、その昔、足立さんはそれを黙って見過ごすことのできない、ことのほか真面目な男だったのだろう。
一方わたしはといえば、この免許センターの一員となったのは5年ほど前のことだ。偶然にも足立さんがその昔在籍していた刑事課に配属となりしばらくして、先輩に当たる既婚男性に言い寄られたことが発端だった。もちろん断固として関係を断り続けたものの、揉めた挙句に社内恋愛沙汰と見なされ、その男は懲戒免職となった。それだけに止まらず、悪いのは先方であるのにたいして、被害者とすら言えるわたしまでもが、部署の風紀を乱したという名目で異動という名の左遷を言い渡されたのである。
同じようなバックグラウンド、脛に傷持つもの同士、打ち解けるには時間はかからなかった。足立さんはいつしか世知辛い人生の先輩であり、良き愚痴相手であり、気のおけない飲み仲間にまでなっていた。
「…やっぱりあの事件が関係してるんですか?」
「…まぁな。俺もちょっとやりすぎたんだ。逮捕されなかっただけマシだな」
自分が警察官として働き始めたころから、薄々気づくことがあった。全ての国民が、全て平等に扱われるわけではないこと。いわゆる特権階級やグレーゾーンというものがごく身近に存在していて、わたしたちは時折それに気付かないフリをしなければならないということ。それを逆手に取りのし上がれる人、そこが我慢できない人。この世界で出世できる人とできない人は、おそらくこの部分が大きく違うのだろう。わたしたちはもれなく後者で、しかも足立さんの場合はもっとタチが悪かった。それでも、それが足立さんの足立さんたる所以なのだから、わたしはそれにとやかく言うつもりはない。ただただ、腹が立った。
「…警察官は正義の味方なんだと思って、一生懸命勉強したり運動も頑張ったりしたのに。その果てが、こんな理不尽な世界だなんて」
「馬鹿にならなきゃ、生きていけねぇ世界だったなあ」
「職選び、間違えましたねわたしたち」
「でも俺ぁ明日から無職だからな。新しい職、選びたい放題だぜ」
「たとえば?」
「キャバクラのボーイとか」
「…下心丸見え」
はは、とそこでお互い初めて笑った。足立さんの、どんなに辛い状況でも笑い飛ばしてくれるようなしたたかさと強さは、いつもわたしを救ってくれる。遅かれ早かれ足立さんが職場を去る日は訪れていたとはいえ、それがいきなり明日だなんて想像しただけで心がくじけそうになってしまった。糸の切れた凧みたいな気持ちとはまさしくこのことだろう、と頭の片隅で思った。
退勤後、いつもの居酒屋で落ち合った。ビールと熱燗を飲んで、おでんと手羽先を食べた。あまりにも行き慣れた店、同じ風景だったので、一瞬これが足立さんの国家公務員としてのまさしく最後の一日なのだということを忘れてしまいそうになる。
手羽先の脂がじっとりとこびりつく指先をおしぼりでぬぐいながら足立さんを見てみると、目が合った。
「これで仕事終わりにNameちゃんと酒飲むのも最後かぁ」
足立さんがため息混じりにそう言った。
「やめてくださいよ。居酒屋くらい、いつでも行けますよ」
「んなこと言って、会うの久しぶりだからここにしましょうーって指定してくる店が小綺麗なフレンチとかになってたら、俺もう行けねぇぜ」
「そんなの起こりうると思いますか?今だってこんなに脂まみれで手羽先食べてたのに」
それもそうか、と一笑して足立さんは熱燗を煽った。お猪口があく間もなく、足立さんは手酌で自分の酒を注ぐ。わたしたちの間では、酌の建前すらなかった。こんな関係を築ける人は、後にも先にも足立さんだけのような気さえする。
「明日からやっていけるかなぁ…」
ぽろりと本音が溢れた。それは甘えのような、駄々をこねるおさな子のような言葉となって、その寂しい響きに自分自身驚いた。それを知ってか知らずか、俺たち左遷同盟だもんなぁと呑気に足立さんが答える。
「勝手に変な名前つけないでくださいよ」
「だって本当のことだろ?」
茶化すように笑って、おでんの大根の上に辛子をちょんと乗せた。
「でもよ。Nameちゃんは、俺みたいになっちゃ駄目だぞ」
いい歳してなぁ、諦めきれねぇことがあるんだよ、と言って大根を口に入れる。その姿を横目で見ながら、わたしも足立さんにならって大根を口に運んだ。出汁がしっかりと染み込んだとろとろの大根は、この店に来ると絶対に頼んでしまうわたしたちのお気に入りの一品だった。口の中に広がる優しい出汁をしみじみと味わいながら、初めてこの店に連れてきてくれたときのことを思い出すと、あの頃の記憶や思いが蘇ってくる。
「……足立さん、わたしがここに異動してきてから、前の部署での変な噂、火消ししてきてくれてたでしょう」
免許センターに異動となり初日を迎えた時、前部署でのいざこざのことを知っている人が既にちらほらといた。その人たちの間では、こともあろうかわたしが先輩を誘惑して不倫沙汰に持ち込み、挙げ句の果てにその男性を訴えて捨てた、という話になっていた。どこで話が違えたのかは全くの不明だが、彼らにとってわたしの第一印象は最悪だったのである。そんななか同じ部署出身のなじみということで足立さんは親切にしてくれ、あとから聞いた話によると、間違った噂を足立さんが否定して回っていたらしい。その話を聞いたのは随分と後になってからだが、なんとなく照れくさくてそのことは直接本人にはずっと伝えられないでいた。
「…そんなことあったか?随分昔のことなんで忘れちまったぜ」
「わたし、足立さんがいたから今まで頑張れたんですよ」
足立さんは変な顔をしている。驚きと照れくささと嬉しさと寂しさが混ざったような、そんな顔だ。かく言うわたしも同じような顔をしているのかもしれなかったが、確認したくもなかった。
今日はわたしに奢らせてください、と頑なに言い張ったお陰で、しぶしぶ足立さんはわたしのわがままを聞いた。気を遣うことねぇのに、とまだ不服そうだった足立さんは、タバコ買ってくる、と入ったコンビニでお菓子を数品買い手渡してくれた。足立さんの方こそ気を遣ってるじゃないですか、と笑うと、黙ってもらっとけ、と笑いながらタバコの煙をふかす。駅までの道をとぼとぼと歩きながら、もらったチョコの封を開け一口ほうり込んだ。
「…なにかあったら連絡してもいいですか?」
そう聞いてから、そもそも自分が今まで足立さんの連絡先を知らなかったことに気付いた。飲みに行くときは大体直接話していたから、連絡先を知る必要がなかったのだ。
そういえば連絡先知りませんでした、と足立さんの方に振り向くと、バツが悪そうに目線を逸らす。
「…こないだ飲みに行った時、Nameちゃんのスマホに俺のラインのID登録しといたから」
「えっ!?」
「寂しいときはいつでも連絡くれよ」
「勝手に人のスマホいじるのやめてくださいよ!」
テーブルの上に置きっぱなしにする方が悪いだろぉ、と警察官らしからぬ言い訳をする足立さんを、なぜだか憎めなかった。本当に絶妙なやり方で人との距離を縮めてくる男なのだ、足立宏一というのは。最後の最後までしてやられたなぁ、と笑いが込み上げてくる。そのお陰で別れのあいさつが寂しい雰囲気にならなくて済んだのも、実は彼の手腕なのかもしれなかった。
帰宅してラインを開くと本当に足立さんのものとおぼしきIDが登録されてあった。アイコンは日本酒のボトルの写真だったのでおそらく間違いないだろう。
いろいろとありがとうございました、とメッセージを送ると、すぐに既読のマークが付いた。そして送られてきたのは、笑顔でグッドサインをしているかわいいくまのスタンプだった。
「…ふふ。変なスタンプ」
おなかがそっくりですね、とメッセージを送って、そのまま床に寝そべった。ひんやりとしたフローリングは、酔いをほどよく覚ましてくれる。明日からも頑張れそうな気が、ほんのちょっとだけした。