百鬼夜行

※刺青を入れる描写があります。不快に感じる方はブラウザバックでお戻りください。


 邪魔すんぜ、という声とともに、扉は男によって乱暴に開かれた。その声でだいたい来訪者の検討はついたが、画集を手にしていたNameが顔を上げると、予想通りいつもと同じ機嫌悪そうな顔がこちらを見据えている。
「左馬刻さん」
「よぉ」
「言ってくれれば、事務所まで伺ったのに」
「いーんだよ。こちとらずっと事務所にいんだ、たまには外歩かせろや」
 いつ見ても怖い顔をしているこの男の笑った顔を、Nameは見たことがない。特に見たいと思ったことはないが、笑うことはあるのだろうかと訝しむことはある。いつも眉根を寄せあらゆるものへの怒りや憤りを滲ませているように感じるのには何か理由があるのか、はたまたそれは左馬刻らが生き様としている「極道」に基づくものなのか、どう転ぶにせよ、それはNameには知る由もなかった。

 
 火貂退紅の訃報の知らせが入ったのはつい先日のことだ。
 巨大な極道組織をまとめあげた豪傑も、人生の寿命には抗えなかったらしい。目の前の不機嫌そうな男の座右の銘とは裏腹に、死はまさしく彼にも平等に訪れた。
 そうして亡き組長のあと、通常であれば現若頭の左馬刻が組長となる流れが通例ではあったが、他の古参たちと比べ、盃を交わしそこまで長くはない左馬刻がそのまま組長になることを快く思わない者たちが少なからずいた。今しばらく事態が落ち着く間という名目で火貂退紅の妻が組長代理を務めているが、いつまでも彼女が代理を務めるわけにはいかない。ただそれで内情は丸く収まるわけもなく、誰彼のふつふつと煮え切らない怒りの狼煙が諸所で上がっており、それは今も続いていた。
 この組の状況のせいで、最近の左馬刻は外を一人で出歩くことを周りの者から止められ、気ままな時間を過ごすことは少なくなっているようだった。


「これからまた荒れそうですか?」
「…まぁ、そうだろうな」
 左馬刻はさもどうでも良さそうにどっかりと目の前の回転椅子に座る。自身の胸元のポケットに手を入れ煙草を探す仕草を見せたので、ライターに火をつけ顔の前に持っていくと、そういうチンケなマネはいらねぇと睨まれた。不要を言い渡されたライターは所なさげに机に転がる。自分で煙草は吸うことはないが、ここに来る客は十中八九愛煙者であるため、事務所にはライターは欠かさないようにしていた。
「今日はこの間の部分、仕上げで良いですか」
「あぁ。頼むぜ」
 わかりました、と答えると、親父さんの具合はどうだ、と左馬刻が煙草の煙を吐き出しながら問う。
「…悪くなってはないけど、良くもならない。いつもと同じです」
 Nameの父親はこの界隈では名の知れた彫り師で、火貂組の亡き組長は父親をたいそう買っていた。何日も組事務所に泊まり込んで、火貂組の者の刺青をたくさん彫ったりもした。左馬刻の背中に入っている立派ながしゃどくろも、やはり父親が彫ったものだ。
 その父親は、昨年悪性のリンパ腫が見つかったため闘病生活を続けている。本人の口からは引退という言葉は出たことこそないが、とどのつまり現状引退しているようなものだった。
 それからはずっと父親のもとで技術を見、学んでいたNameが仕事を引き継ぐことを決めたが、この業界はどうしても女への風当たりは優しくはない。それもあって、以前と比べると客足は遠のいてしまっていた。そんななか、左馬刻はふらっと「肩に新しいの入れてくれ」と現れたのだった。

 施術台にあがるため煙草を咥えたまま散漫な仕草でシャツのボタンを外していく左馬刻を尻目に、施術の準備を始める。手を動かしながら、早くゴタゴタが収まれば良いですねぇ、とNameがこぼすと、兄貴達の気持ちは分からなくもねぇよ、と意外にも真面目に左馬刻は答える。
「ヤクザもんはのし上がってナンボだ。上を目指さねぇと男じゃねぇ。それが、極道ってモンだ」
「…まぁ、たしかに」
 ずっと父親の仕事ぶりをそばで見てきたNameは、極道の生き方は嫌というほど知っている。極道というものは、過去も未来もなく、身一つで今だけを生きている。とても刹那的な生き物だった。決して讃えられるものではないが、そういう生き方を多く見すぎてしまったせいか、彼らの生き様はなんとなく刺青と似て不思議な美しさをはらんでいるようにも思えた。いつの間にか心に入り込んで、忘れることができない悪夢みたいな、そんな魅力。
 昔、小さい頃に父の仕事場で盗み見をしたとき、父の彫る鬼や生首などは涙が出そうなほど恐ろしかった。屈強な男たちの背中に色鮮やかに彫られたそれらは、今にも自我を持って動き出しそうに思えた。しかしその一方で、なぜか心の奥底ではなにか惹かれるものがあることにも気づいていた。どこかそれを思い出させるような感情だった。
「でも左馬刻さん、あんまり関心がなさそうに見える」
「あ?」
「ゴタゴタのまさしく中心にいる人なのに」
 左馬刻が全てのボタンを外したので、シャツを預かり袖をハンガーに通した。施術台に向かう左馬刻の背中がちらと見える。今日も背中の絵はいきいきと禍々しい雰囲気を発していた。
「…そう見えてもおかしくねぇのかもな」
 左馬刻は煙草を灰皿に押しつけ、施術台に寝転がった。
「成り上がるのは簡単じゃねぇ。俺がここまで来れたのも、俺以外の誰かがこうなれなかった結果だ」
 Nameは黙って施術台のそばの椅子に座り、消毒液をコットンに浸す。
「俺の意思がどうであろうと、俺は極道として生きてここにいる限り、成り上がらなきゃならねぇよな」
 じゃねぇと任侠道に反するし、じいさんも浮かばれねぇだろとボソッと呟く。左馬刻の言ったことの意味は、Nameにもなんとなくわかった気がした。
 そもそも左馬刻は、地位も名誉も何もなく、自分の手の届く範囲にいる大事なものだけを必死で守れればそれで良いと思っていた。出し抜けに現れては大暴れして、余韻も残さず去っていく。左馬刻はまさしく、夕立みたいな男なのだった。極道としての生き方は理解していながらも、無駄な欲がないため、誰よりも極道らしい極道として生きられる。そして、周りの者がついて行きたくなるような背中をおのずと見せることができる。


 施術部分に消毒液を浸したコットンを滑らせると、前回シェーディングをした部分がわずかに濡れ艶かしく見えゾクリとした。左馬刻の白い肌は何色も映える。だが、決して何色でも良いという訳ではない。
「…じゃ、始めますね」
「頼むわ」
 刺青はただ墨を入れて終わるわけではない。その人の肌、生き様、傷など、様々なものが絡みあい完成する。父が入れた左馬刻の背中の絵も、数年後はさらに輝いてみえるはずだ。それがどうしても見てみたかった。そして、自分の入れた墨がその同じキャンバスのなかでどう見え、どう完成するのかも。自分の腕を信じて大事な身体を託してくれた左馬刻には、必ず応えたかった。
 この人の行くすえを見ていたい。左馬刻にはそう思わせる何かがあった。強さや期待、かなしみ、それでも食いしばって生き抜いてきた道。そんなものを感じる彼の背中に、いつの間にか自分も魅せられてしまっているのかもしれない、と、じんわりと赤く染まっていく肌を見て、Nameは思った。