スピーク・ライク・ア・チャイルド

「錆びつく南風」の続きの話ですが、読んでいなくても一応読めます。


 街灯がぼんやりと照らす中シートに深く腰掛け、胸元のポケットから煙草を取り出し火を付ける。その一連の動作を、何年も繰り返している。煙をふぅ、と吐き出せば、まるで泥のように重く感じる疲労感が、良くも悪くも僅かばかり麻痺していくような気がした。
 夜の駐車場でこうして自分の車で一服をするのは、どうしてか自宅に戻りスーツを脱ぐ瞬間よりも一人きりになれる時間のように感じる。家に帰れば帰ったで多少なりともやることはあるし、PCや携帯電話でメールをチェックしたりもする。ただ、この瞬間だけは自分は一人で煙草だけを吸っている。それが、知らぬうちに自分なりの気分転換となっていた。


 ふいに携帯電話が鳴った。無意識のうちに助手席に放り投げ、そのままにしていた携帯電話に視線を移す。だが、無機質に転がっているそれからは、着信音も着信を告げるライトも灯らない。それもそうだ。よく考えれば、この着信音はこの携帯電話からではないのを俺はよくよく知っている。この音は、普段表向きに使っている仕事用のものではなく、所謂「情報提供者」からのものだった。分かっているはずなのに、反射的に仕事用の携帯電話を見てしまう自分は、余程疲れているらしい。今週有給を使えるタイミングはあっただろうかと考えながら、もう一つの携帯電話を手探りで見つける。それは、最近肌寒くなり着始めた、クリーニングに出したての薄手のコートのポケットの中にあった。


 電話を手に取り画面を見ると、予想通り「非通知」の表示だった。情報提供者からの連絡は非通知設定のものが多いため、特に何も思わずそのまま通話ボタンを押す。電話口から予想もしない声が聞こえてくるなど、その瞬間は知る由もなかった。
「もしもし銃兎くん?」
「……、」
 思わず言葉に詰まった。
 瞬時に、あの刺すような日差しの風景が頭に思い浮かぶ。彼女を思い出すときは、なぜがいつもあの夏の情景も同じように脳裏に蘇るようになっていた。気が付けば、手にしていたまだ吸い始めの煙草を車内の灰皿に押し付けている。
「……Nameか?」
 呟くように問うと、彼女はへへ、と控えめに笑う。受話器に小さく当たる笑いの吐息が、どうしようもなく彼女のそれだった。
「当たり。よかった、銃兎くん、番号変わってなくて」
「お前、今までどこで…、今、どこなんだ」
 ええとね、と間延びした前置きをしてNameが続ける。彼女は昨年の夏以来、この街から姿を消していた。電話も繋がらずメールもエラーで返ってくるばかりだったので、もう二度と会うこともないと思っていた。その彼女が、まるで一昨日ぶりに話すみたいな調子で今電話越しで喋っている。にわかには信じられなかった。
「山下公園の公衆電話」
「山下公園?横浜のか?」
「そう。…横浜の」
 山下公園は神奈川署本部の目と鼻の先だ。俺は今神奈川署本部の駐車場にいる。つまり、Nameが言っていることが嘘でなければ、彼女はほんの数百メートルの距離からこちらに電話をかけているらしかった。こちらの動揺を全く気にかけることなく、その能天気な声は続ける。
「銃兎くん、元気?体、壊したりしてない?」
「それはこっちのセリフだ。…お前、あれから大丈夫だったのか」
「うん。銃兎くんのおかげで、私はここを離れられた。今はね、海のない街で、一人で暮らしてるの。古いお城があって、静かできれいなところ。そこには中華街もないし、”同胞”もいない」


 チャリ、カタン。彼女が喋る間にわずかに受話器の向こうで金属音がするのは、小銭を電話に入れているためだろうか。なんだかひどく懐かしく、寂しい音のような気がした。
「…ここには、帰ってくるつもりはなかったんだけど」
「……」
「夏が来たら、この公園からの景色が無性に懐かしくなって。どうしても見たくなって、少しだけ帰ってきちゃった」
「夏はもうとっくに終わったぞ」
「うん。夏の間じゅう、帰るか帰らないか迷ってて、決断したころにはもう寒くなってた」 
 相変わらず馬鹿だな、と返すと、そうだねぇ、とNameはまた小さく笑った。あの公園からの景色は確かに悪いものではない。たとえこの街の内情を嫌というくらい知っていたとしても、そこには憎めないきらめきみたいなものがあった。だが、あの公園は中華街から極めて近い場所に位置している。”同胞”に見つかる可能性と天秤にかけて、それでもここに戻ってきた彼女はやはり馬鹿以外の何者でもないだろう。しかし、その実直なまでの潔い馬鹿さが、Nameという女そのものなのだった。


 彼女がこの街から姿を消してから、言いたかったことや聞きたかったことがたくさんあった。それは、くだらないことや、そうではないことも含めて。それなのに、いざとなると口からは驚くほど何も出てこない。まるで重い鉛のようで、自分で自分に呆れてしまうくらいだ。
「…最後の10円だ」
 またチャリ、カタンと音が聞こえる。思わず、携帯電話を握る手に力が篭った。
「…今夜行くあてはあるのか?家には帰らないんだろう」
「うん、適当にどこかで時間を潰して、始発を待つつもり。…それよりも」
「ちょっと待て。それ本気で言ってるのか?」
「あのね、ずっと伝えそびれてたことがあるの」
 Nameが言葉を遮る。少しの沈黙が流れた。まるで本当の最後みたいで、無性に腹が立った。
「それが言いたくて、電話したの」
「おい」
「銃兎くん。……あ」
 プッ、という間抜けな音とともに、電話はそこで切れた。愕然とした。ディスプレイにはわずかな通話時間だけが表示されている。ほんの3分と少し、つまらない言葉を交わしただけだった。思えば、いつもそうだ。肝心なところで、いつも何かが足りなかった。本当に癪に触る女なのだ。


 プー、プー、という耳障りな音を鳴らす携帯電話を、再び助手席に放り投げた。元から横たわっていた仕事用の電話に当たり、鈍く重い音がしたが、それには目もくれずエンジンをかけサイドブレーキを解除する。簡単な話だ。山下公園まで飛ばして、電話ボックスでうすぼんやりと立ち尽くしている女を見つければ良い。これがただの情だろうが愛情だろうが、今はどちらでも構わなかった。どうせ真夜中だ。いくら不格好だとしても、夜が全てを隠すのだから。