今日も変わらずこの街は小汚くて賑やかだ。しかしこの小汚さが、妙に親近感を抱かせることに最近になってようやく気付きつつあった。タバコに火を付け一息つき、閑古鳥が鳴いているであろう中国茶専門店を目指して歩く。しばらくすると、店の通りが見えてきた。
Nameは軒先に置いてある、錆びれた丸椅子に足を投げ出しぼんやりと座っていた。隣にはビールケースを積み上げて作った簡易テーブルらしきものがあり、その上には飲み物が入ったグラスが置かれ、汗をかいている。数メートルの距離になってようやくこちらに気付いた彼女は、あ、とまるで眠りから覚めたときのような至極間抜けな声を出した。
「この間の礼だ」
封筒には札が数枚入っている。ずいと彼女の前に差し出すと、数秒間腑抜けたようにそれを見つめていたが、受け取ることはせずにこちらを真正面から見つめた。
「…なんだ。この額じゃ不足か?」
「逮捕できたの?」
「…あぁ。現行犯逮捕だ」
からん、と安っぽいプラスチックのグラスに入っていた氷が溶けて音を立てた。真夏の無遠慮な日差しが、アスファルトを反射して彼女の足を白く照らしている。まがいものみたいな赤いペディキュアが生々しく光った。そう、と呟いて、同じ色のマニキュアが塗ってある細い指がグラスのふちをなぞる。
「…それはいらないから、そのかわり、ドライブがしたい」
「ドライブ?」
突拍子もない単語に面食らった。なにかの冗談かと思えば、Nameは珍しく真剣そうな顔をしている。
「そう。ドライブ」
「どこかに連れていけってことか?」
「目的地があるわけじゃなくて、ドライブすること自体が目的」
「はぁ?」
ね、いいでしょ。どこかあてもなくドライブしようよ、と打って変わっていつものヘラヘラした顔でNameは続ける。今日、何度目かのため息なのかはわからないが、それでもため息は出る。いくらでも。
「…何が悲しくてなんで俺がお前とドライブなんか行かなきゃならねぇんだ」
「良い情報教えてあげたじゃない」
「その礼がなぜ金じゃ駄目でドライブなら良いんだ?車に乗りたいなら、その金でタクシーにでも乗ればいいだろうが」
「それじゃダメなの!ね、一生のお願い」
しばらく押し問答が続き、拉致があかない、と思った。彼女はヘラヘラしているくせに頑固なのだ。くそ、なんだってこんなに面倒なことばかり起こる。面倒ごとといえば、左馬刻がいつも突然乱暴に投げつけてくるものだけで十分以上だった。しかし、日差しの暑さとNameのしつこさに次第に反論し続ける気も失せ、力なく今回だけだぞ、と呟けば、そうこなくっちゃ、と彼女は嬉しそうな顔を見せた。本当は軽々しく他人を自分の車に乗せるのは気が引けたが、実際に売人の情報を提供してくれたのだし、背に腹は変えられない。そう自分に言い聞かせて、絡みつく太陽に焼かれながら、鉛のように重たい一歩を踏み出した。
「わ、すごいタバコの匂い」
「煩えな。文句があるなら降りろ」
Nameを乗せ、早速「あてもないドライブ」を始めた。行先に全く何の希望もないらしかったので、とりあえず湾岸線に入り南へ車を走らせる。彼女は窓を全部開け、風が気持ちいいと満足そうに笑った。気持ちいいというよりは風が強すぎるくらいだが、黙って好きなようにさせることにした。
やっぱりドライブにはラジオよね、とNameが勝手にカーステレオをつける。一人で運転をするときはあまりステレオをつけることがなかったので、新鮮だった。流れ出したFMからは、外国人のディスクジョッキーが英語とカタコトの日本語で喋る声が聞こえてくる。その流れで海外の曲が流れるのかと思えば、日本の思いっきり古い歌謡曲が流れたのでなんだか気が抜けてしまった。
サービスエリアで一回止まり少し休憩し、それぞれ缶コーヒーを買って車に戻った。しばらくまた車を走らせていると、飲み終わった缶コーヒーを手で弄びながら、あの売人のことだけど、とNameが口を開いた。
「やっぱりたいした情報は得られなかったの?」
「…ああ」
「そうかぁ。役に立たなくてゴメンね」
「…貴女の情報は売人を逮捕すること自体には役立ちましたよ。謝る必要はない」
そう答えると、Nameは少し口を紡ぐ。そして、少し間を開けてからまたこう続けた。
「実はさ。あの売人と、少し付き合ってたの」
「なんだって?」
思わず眉を寄せる。冗談かと思って彼女の方に目をやったが、冗談を言っているようには見えなかった。真っ直ぐ前を向いていたが、ふといつものヘラヘラとした調子で、腐れ縁でね、別にそこまで好きだったワケじゃないけど、と言った。
「薬、やめて欲しかったのは本当。でも、私なんかが言っても絶対聞いてくれないし。だから、どうせなら銃兎くんに逮捕してもらうのがいいかなと思って」
「……」
「終わり方を探してたの。…なんか、いろいろな」
いろいろ、とは、その売人との関係のことだけではなく、彼女を取り巻く環境のこと全てを指しているのだろう、と推測できた。強い繋がりを持つ一つのコミュニティで生きてきた人間は、そこから離れるのは難しい。たとえ歓迎されてはいなくとも、それが閉鎖的であればあるほど。彼女はそういうしがらみをすでに乗り越えて生きているのかと予測していたが、それは外れていたようだ。宙ぶらりんの彼女をうまく利用してきた自分が言えたことではないが、せめてそういう大事な話はサービスエリアでしてくれれば、もっとマシな言葉がかけられるのだろうに。彼女はあえて、まるで独り言を言うみたいに、つらつらと口を動かす。
「ろくでもない人間は同じような人間にしか出会えないんだよねぇ。こうして、ここいにいても。だから、銃兎くんと出会えたのは、結構奇跡的なのかも」
「…俺だって自慢できるような人間じゃあない。お前も知ってるだろ、色々と」
ハンドルから目を離さず、そう答えた。自分が働いてきた悪事はもう思い出せないくらいだ。大義名分があるからとはいえ、過去の友人は快く思わないだろう。お前も俺も同じ穴の狢だよ、と呟けば、Nameはそうかな?と返事を寄越す。
「私からしたら、銃兎くんは毎日頑張って大変な思いして働いてるように見える」
「隣の芝は青く見えるもんだ」
ふとこちらの方を向いてNameが口を開いた。
「銃兎くんも、昔つらいことがあったから今頑張れてるの?」
「…それも、あるかもな」
数えるほどしかなかったが、酒の席でさえろくにお互いのことを深く語ったことはない。だが、普段なら快く思わない筈の無遠慮に懐に飛び込んでくる彼女のやり方は、不思議と今は嫌ではないように感じた。カーステレオからは相変わらずカタコトのディスクジョッキーが陽気に喋っている声が聞こえる。どこか違う世界の出来事のように思えた。
日が少し傾いてきたせいか、西日が頬をじりじりと照らし始める。暮れかけの青空はどこまでも高いが、そろそろどこかでUターンをして横浜方面に戻るのが良いだろう。ただ、この狭い空間がまるで世間から隔離された繭のなかのように感じられ、気味のわるい居心地の良さがあった。
「あんなにキレイな街なのにねぇ」
ふいにNameが沈黙を破る。”あんなにキレイな街なのに“、好きになれないのはどうして。全身がそう語っていた。
「…別に、ここに留まる必要はないんだろ?東京でも大阪でも、どこへでも行けばいい」
「…うん。そうだなあ……」
「……」
なかなかどうして、いじらしい女だった。「助けて欲しい」と一言言えば、それなりに助けは得られるはずなのに、それを心の奥に秘めたまま、今の今までやり過ごそうとしていた。
「銃兎くんは?ずっとここにいるの?」
「…俺はこの街で、やることがある」
「そうだねぇ」
どこか行っちゃえたらなあ。そう言って彼女は、開けた窓に頬杖をついて外を眺めている。どんな顔をしているのか運転席からは見えなかったが、なんとなく、泣いているのではないかと思った。
「いまからでもやり直せると思う?」
「当たり前だ。いつだって、やり直せるだろ」
「そうかぁ」
気の抜けた炭酸のような声で返事をして、彼女はしばらく外を眺め続けた。弱っているものに手を差し伸べてしまいたくなるのは、認めたくないが己の性なのだろう。そんな自分がいるからこそ、たしかにまだこの街で生きていけるのかもしれない。とっくに無くしたと思っていたが、警察官になることを志した過去の自分の欠片はまだ粘り強く残っているようだ。そう思いながら彼女のおくれ毛が風になびくのを横目で見た矢先、インターチェンジがまた車窓から消えていった。
あの日を境に、彼女は煙みたいに消えてしまった。
例の中国茶専門店に足を運んでみると、錆び付いたシャッターが下されていた。いつかNameが足を投げ出して座っていた軒先の椅子はそのまま放置されている。ビアケースを積み上げた簡易テーブルには、あの日と同じように安っぽいプラスチックのカップだけが残されていた。まるで、風景から彼女だけが切り取られたみたいだ。
今まで気付かなかったが、最後にここに来たときよりも日差しは心なしか和らいでいる。首筋に絡みつくおくれ毛。それと同時に「再见(さよなら)」、あの日そう言った彼女の顔が頭を過った。
もう、じきに夏も終わる。
その後の話