恋泥棒

 今日もPC上の社内チャットツールは相変わらず目まぐるしい。一つ一つ追っていくのは骨が折れる。特に、綿密な作業をしている場合は尚更だ。自分の集中力の限界を感じ、一息つこうと背もたれに背中を預けた瞬間、胃のあたりがくぅと鳴った。そういえば、もうとっくに昼時だった。
 在宅での仕事が軌道に乗ってきたのは良いことだが、日々の食事にはなんとなく悩まされていた。誰か自分以外に人がいればちゃんとした食事を作る気にもなるのだろうが、生憎一人暮らしの身としては面倒なことこの上なかった。いっそ何も食べずに、或いは簡単なプロテインバーみたいなものだけで一食の栄養がまかなえて、それでいて満足感をかんじられる身体だといいのに。人間はまだ進化の余地がある。ただその余地が、より良いものを生み出す世界になっているのだろう。美味しいご飯然り、芸術然り。全く困った生き物なのだ。栄養バランスがきちんと考えられた、キレイな具沢山のご飯を作ってSNSに投稿するひとたちのことを考える。そんなこと、いくら仕事が無くたってわたしには絶対できない気がする。ほとほと、自分は「ていねいな暮らし」には向いていない。



 昨日は何を食べたっけ。半分PCの中に脳みそを置いてきた頭で考えたが、思い出せなかった。多分、昨日はその前の日の晩ご飯の残りを食べた、はずだ。自信はない。
 のろのろとキッチンに移動する。キッチンの電気をつけると、突然インターホンが鳴った。そして間髪入れず、ガチャガチャと鍵を開ける音もする。
「おはよう、Nameちゃん」
 大体の想像はついたが、やっぱり玄関にはヘラヘラと笑っている趙くんがいた。片手に持つスーパーの袋ががさがさ鳴っているのを目ざとく見つける。
「あ、なんか買ってきてくれたの?」
「っふふ、相変わらず花より団子」
「おはようっていうにはもうだいぶ遅いよ」
「うん、一理ある」
 今日も仕事、お疲れさま。そう言って、抱きしめて軽くフレンチキスをくれる趙くんは、まだお昼なのにもう仕事でどろどろになってしまったわたしにはあまりにもさわやかだった。一瞬間を置いてやっと現実に戻ってきた気がして、趙くんの背にぎゅっと腕を回す。いつもの趙くんのちょっとだけギラギラする良い匂いがした。


 今日はなんの気分?と趙くんがにこにこしながらキッチンに入っていき、手慣れた仕草でスーパーの袋から買ってきたものをキッチン台の上に並べ始める。
「美味しいものならなんでも」
「そう言うと思ってちょっと良い牛肉とお豆腐屋さんのおいしいお豆腐と新鮮なエビを買ってきましたー。どれが食べたい?」
 牛肉なら青椒肉絲、お豆腐なら麻婆豆腐、エビならエビチリといったところか。彼は料理ならなんでもできるけれど、やっぱりせっかく作ってくれるならお家芸の中華料理が良い。
「う〜ん、悩むけど…麻婆豆腐!」
「さすがの良いチョイスだねぇ。りょーかい」
 満足そうに眉を下げた趙くんは、洗面所に手を洗いに行った。料理をする人だけあって、そういう衛生面はきっちりしている。指輪も全部外してキッチンに戻ってくる。
「じゃー始めまーす」
「おねがいします!」
 これとーこれとー、と使うものだけ残して、他の食材は全部冷蔵庫にしまっていく。
「くつろいでていーよ、Nameちゃんちなんだからさ」
 隣で突っ立っていると、趙くんが手を止めずにそのまま目線だけ寄越した。
「それともそんなに俺のそばから離れたくない?」
「ただコックさんの手際の良さを見てたいだけだよ」
Nameちゃんのコックさんはイケメンだし手際良くてカッコいいもんねぇ」
「そうなんですよぉ」
 お互いいい歳して、こんな他愛もないじゃれあいが楽しかったりする。趙くんは基本的にヘラヘラしているけど、決して適当に軽くあしらったり嫌なことを言ったりしない。優しさが滲み出ているのだ。立場上、威圧的な見た目をしているけど、中を覗けば人情味あふれる優しい人だ。きっと趙くんを知っている人なら、みんなそう言うだろう。
「あ。Nameちゃん、花椒取ってほしいな」
 趙くんとこういう関係になってから、自分一人ではおそらく買うことのなかったであろうスパイスや調味料が家に増えた。花椒もそのひとつだ。ウチではもう使わなくなった第一線を退いた鍋だけど、と言ってお古の中華鍋を持ってきてくれたこともある。そんなことがたくさんあって、最低限のものしかなかったキッチンが、いまや趙くんのお陰で結構充実してきている。こういう風にして、わたしの世界は少し広がった。なんだか、いまのキッチンを見ると少し誇らしくもある。


 テキパキと無駄のない動きでどんどん料理が出来上がっていく。趙くんの手捌きをぼうっと見ているあいだに、あっという間に麻婆豆腐とスープとサラダが完成した。
「はーい、できました」
「いい匂い!ありがとう、ご飯、チンしたやつよそっておいたよ」
「ありがと〜」
 なんて贅沢な昼食だろうか。昨日のわたしが見たらきっとよだれを垂らして羨むな、とよくわからないことを考えた。趙くんがいて、素敵な昼食が目の前にある。どうだ、いいだろう、昨日のわたし。
 二人して、いただきまーすと手を合わせ、さっそく麻婆豆腐を一口いただく。コクのある味のなかに花椒がピリリと光る。言うまでもなく、とても美味しい。
「うーん……趙くんのごはんは、ひとを幸せにするよ。すっごく美味しい」
 アハハ、そりゃあよかったと趙くんが笑った。
「お昼作ってあげたくらいで。おおげさだなぁNameちゃんは」
「そうかな?」
「うん。でも、ありがと」
 お礼を言うのはわたしの方なのにな。そう思いながら、スープが入ったカップに口をつける。卵とネギのシンプルなスープだが、ごま油の香りが食欲を刺激する。
「だってこのごはん、毎日食べたいもん」
「…Nameちゃん。それってプロポーズ?」
「へっ?」


 お箸からボトッと豆腐が転げ落ちた。どうせいつもの冗談だろうと思って趙くんの方を見ると、やけに真面目な顔をしていてぎょっとする。料理が美味しすぎて、喋る言葉がちょっとおざなりになってしまったみたいだ。焦りと、多分麻婆豆腐の辛さも相まってじんわり額に汗が滲んでいるような気がするのに、趙くんはこちらの動揺はまったく目に入らない様子で喋り続ける。
「落ち着いたバーとかレストランとか、さ。オシャレでかっこいいシチュエーションでっていうのが定番かな〜と思ってたけど、こういうのも逆にドラマみたいでいいね」
「えぇ〜??」
 別にそんなつもりで言ったんじゃないんだけど、なんて言わせないような雰囲気に持っていかれる。趙くんは、見てみぬフリをして、自分のペースに巻き込むのが得意なのだ。強引、とも言う。
「なぁんてね。そんなつもりで言ったんじゃないのはわかってるよー。ちょっと揶揄ってみただーけ」
「もー、いつも、ビックリするからやめてよ…」
「あははは」
 ついさ。Nameちゃんにご飯作ってあげるのと、揶揄うのは俺のシュミみたいなもんだから。のうのうと言ってのけた趙くんは、いつの間にか開けていた缶ビールで麻婆豆腐を流し込んだ。絶対に美味しいはずだ。ずるい、わたしは一応まだ勤務中なのに。
「でも、いつか期待しててよ」
「え?」
 プロポーズのことだろうか。
 聞いてもいいのだろうか、と考えた。が、臆病な大人は踏み込むことが苦手だ。言わずもがな、わたしもその例に漏れない。う、うん。と曖昧に返事をしたら、趙くんがわたしの考えを見透かしたようにまたニヤニヤと笑った。でも、そのサングラスの奥の目はいつも通り、とってもやさしい。そういうところが、ずるいのだ。
「それよりさ。明日休みでしょ?泊まってってもいい?」
「あ、うん、もちろん。…じゃあ夜は是非エビチリを」
「そこも花より団子かよ〜」
 二人の笑い声がリビングルームに響いた。思っていたよりも、なんだか柔らかくて幸せな響きだ。
いつまでもまぬけなわたしと、一枚も二枚も上手な趙くん。そもそもわたしと趙くんは同じ土壌に立てていない気がするのだが、趙くんも楽しそうに世話を焼いてくれるから甘えておけばいいのだろう、たぶん。神様はこういうわたしたちのために進化の余地を残しているのかもしれない。実は、世界はうまくバランスが取れているのだ。
 まだ勤務中だけど少しだけビールもらおうかなぁ、と、目の前のやさしい笑い顔を見ながら、すでに酔っぱらったみたいな頭でぼんやり考えた。